nasturtium



回想〜消せない想い〜 と微妙に続いてしまいました


「へぇ、大介さんのお誕生日、ずいぶん先ですね」
一緒に暮らしていた頃、カレンダーを見ながら零が唐突にそんなことを言った。
「あぁ、そうだな。自分では誕生日なんて意識しないからなぁ」
「ダメですよそんなの!大事な日じゃないですか!その時には僕、よかれと思ってケーキ作りますね!大介さんの好物だけで作ったホールを3つくらい作っちゃいますね!」
「うーん、その時まで零の手が無事か心配だなぁ」
「ひどいなぁ、これでも僕結構やるんですよ!?あっ、3つじゃ足りませんか!?」
「ありがとう」
必死になってケーキを作ると主張する彼は、たとえ正体が分からなくても可愛らしいなぁと思ったことをよく覚えている。
「ケーキの数なんか多くなくていいんだよ。気持ちが嬉しいからね」


************

何の気紛れだったのか、僕は目を覚ました時、まだ零のことを、零との生活の数々を覚えていた。
けれど、辺りを見渡しても、彼の姿はどこにもない。近くにいるような感じはしなかった。
(記憶を消すのをやめて、帰ったのか…?)
どういうことだろう。僕が彼のことを覚えていることは、彼に都合が悪かったんじゃないんだろうか。僕の言葉が響いてくれたということなんだろうか。もちろん、あの時彼に言ったことに偽りはない、ここが彼の帰ってくる場所になればいいと、今だって思っているけれど。

それから数日経って、あの時の出来事が夢なのか現実なのか疑わしく思えてくる頃になって、
「……零」
彼は再び突然現れた。夢なんかじゃない、あの豹変したままの彼の姿で、部屋の中にいた僕の前に唐突に現れた。
「来てやったんだぜ?ありがたく思えよ」
マグカップが床を転がる。熱湯に溶かしたインスタントコーヒーが彼の足先にかかるのに、彼は見向きもしなかった。相変わらず凶悪な笑みを浮かべて、立っていた。
僕を見て笑って、いた。
「……」
僕は何も言えないまま、ほとんど息もできないまま、目の前の彼を――相変わらず小さくて冷たい彼を、抱き締めていた。
「オイオイ積極的だなァ、片桐サンよぉ」
信じられない。自分でもほとんど諦めていたのに、僕はこんなにも彼が僕を選んでくれることを待ち望んでいたのか。


勘違いするなよ、と彼は言った。戻ってきたわけじゃない、と。気紛れをもう少し伸ばすだけで、いつかはまた僕の前から記憶ごと消えるのだそうだ。少しでも深入りしようとしたら殺す、とまで言われた。
上出来だろう。彼がこの世界に来ているのには目的があってのことだ。僕にはそれを邪魔したい気持ちは――たとえそれがこの世界の滅亡とか、僕の死に繋がるものであっても――毛頭ないし、それと僕が彼を迎えたい心には何の関係もなかった。彼がどれだけ正義とかけ離れていても、邪悪で人間離れしていても、そして彼の目的に僕が賛同や協力ができないようなことだったとしても、そのことと彼個人は別なのだと思っていた。この前だって、それを伝えたつもりだった。それが少しも響かなかったのなら、今ここに彼はいないはず。僕はこの結果に十分満足していた。
「あ、そうだ。でも一つ聞きたいんだけど」
「……」
僕が思いついたように言うと、彼は怪訝そうに目を上げた。黙ってはいたが促されていると解釈し、僕は続きを言う。
「君の本当の名は何て言うんだ?」
「はァ?」
「真月零は本当の名前じゃないんだろう?」
気づいたら、僕は床に背を強く打って転がっていて、目の前――というか上、に彼がいた。どういうことだろう、と思っていたら遅れて背中に痛みが走った。
「殺されてぇのか。踏み込んでくんなっつったはずだ」
そして、その眼力。あぁ今までだって十分知っていたはずだけど、彼は本当に異世界人なんだなぁと思った。もっと恐怖を覚えてもいいはずなのに、どういうわけかそこまでではない。けれど、彼が凄まじい力を持っているということは十分に思い知る。
「…いや、踏み込んだつもりはないんだ。どう呼んだらいいかな、と思ってね」
可能な限り落ち着いた声を出すよう努める。彼は相変わらず顔を歪めていたが、それ以上激情がエスカレートすることもなさそうだった。
「…そんなことのためにわざわざ知る必要があんのかよ。テメェが知ってる名前使えばいいだろ、バカか」
「…そうだね、わかったよ」
それ以上痛い思いを進んでしたいわけでもない。僕は諦めて引き下がった。彼がそれでいいと言うなら、これからも彼は真月零ということだ。
「……」
でもどうせここまで怒らせたのなら、どこまでがそのラインなのか見てみるのも手かもしれない。僕だって、いくら見た目通りでない異世界人とは言っても、少年の姿をした彼相手にあまり下手に出続けるのも本意じゃないし。わざわざ自分から戻ってきてくれたのだから、ある程度は気に入られているはず、そんなに簡単に殺されたりはしないだろう。
「でも、僕だって考えて動く動物だからね。もし君があんまり冷たかったらどうしようかな。親にもそろそろ結婚しろって言われているし」
そう言って、僕の上に跨る彼の背を取り、引っくり返す。特に抵抗はなく形勢は逆転。彼は一瞬驚いて空白になった、零と変わらないあどけない表情をした。
「…へぇ、俺の後に人間の女なんかで満足できるっての?やってみろってんだよ」
次の瞬間には、また例の禍々しい笑顔に戻って彼はそう言った。意外にも、こんな分かりやすい挑発では彼の機嫌を損ねることはないようだった。駆け引き的な高次の冗談を楽しむことはやぶさかではないということなのかな。今までは子供だと思っていたけど、大人以上のものを相手にしていると、しかもそれを向こうも了承のことと思って問題なさそうだ。
それにしても、と彼は言って、僕の顔に手を伸ばしてきた。
「よかれと思って抱いて下さいっつった時には見向きもしねぇで、異世界人と分かったらコレかよ。アンタ食指おかしいんじゃねえの?ファンが知ったら泣くぜ」
まぁその前に男相手にできるって時点でおかしいけどな、そう言いながら彼は僕に組み敷かれて可笑しそうに喉で笑っていた。僕は引き込まれるまま彼に唇を落とす。初めて啄ばむ、冷たい唇。確かに、真月零だった時にも、彼は僕に迫ってきた。その時には僕はそれを断った。
「君が人間の未成年の少年か、たった独りの異世界人かでは、君に対する責任の取り方が違うんだよ」
「……」
僕は至近距離で彼の紫色の目を見据えた。彼は怪訝そうに黙っている。彼にこんな真面目くさったことを言って、通じるものかどうかは分からないけど、少なくとも言って、伝える努力はしておかなければならないことだった。
「これは僕の覚悟の証だ。受け取ってくれるね」

「…ハ、テメェの価値基準なんかどうでもいんだよ、楽しきゃなァ」
彼はしばらく無表情で僕を睨んだ後、唇の端をめくり上げてそう嘯いた。ほとんど予想通りの反応だった。仮に真意が伝わっていたとして、彼がそれを真面目に取り合うようなことを答えるとは思えないし。
「君はそれでいいさ。僕も楽しませてはもらうよ」
僕もそれ以上難しいことは考えず、彼の細い、少年の形をした頸筋に顔を埋めた。


***********

そして、あの日零がずいぶん先なんですね、と言っていた日はギョッとするほどの早さで訪れた。この歳になると自分では忘れるものだけど、親から電話があったのでそれを思い出す。
祝福の言葉と一緒に、あんたもいい歳なんだからそろそろ結婚、と、お決まりの文句を言われた。
(…ハハ、そうだよなぁ)
少なくとも同性の、気紛れな異世界人に振り回されてるべき歳ではないか。
『俺の後に人間の女なんかで…』
と思ったところで、最後に会った彼の言葉がフラッシュバックする。

『よかれと思ってケーキ作りますね、3個!』
『来てやったんだぜ』
(……でも)
もし、僕があの子の辛うじて繋いでくれている手を離したら、あの子はたった独りになってしまう。
大人とか子供とか、人間かそうじゃないか、そんなことは問題じゃない。僕の方から手放すことなんてできるわけがない。責任だけじゃない。僕自身が、あの子の孤独に、伸ばしてくれる手に、こんなにも心を惹かれてしまっているのだ。この世界で平凡に生きている限りは、恐らく他に出会えることのないだろう、悲しくて美しい悪に。
(ひょっとしたら…彼だって、僕と同じ気持ちになってくれるかもしれない)
だって一度は僕の言葉に応えてくれたのだ。興味を持ってくれてはいるのだ。そうやって少しずつ心を交わせたら、僕が彼の目的を度外視して彼を愛していると、今以上に全部を伝えられたら、いつかは全てを委ねてくれるようにならないだろうか。
「…ふ、」
僕は一人で苦笑を漏らした。こんなことを考えてしまう辺り、僕は思った以上に寂しがりなのかもしれない。少なくとも今は、あの日零が言っていたような手作りケーキなんて実現しないだろうし、そもそも僕の誕生日を覚えているはずもない。ここに来てさえくれないだろう。

孤独が僕を迎えるはずの部屋の、そのドアの前に、何かが落ちていた。
「……!」
僕は慌ててそれを拾った。オレンジ色の、大振りな花びらが五枚の花だけで無造作に束ねられた花束。分厚くて円い葉がついている。これは、キンレンカだろうか。普通、花束より庭植えにする花のような気がする。
宛名も差出人も当然ながら記されているものはない。が、花束の中央に、白い小さな封筒に入ったカードが手差しされていた。手書き、ではない。花屋のサービスで付いている付属品のようだ。かと言って、誕生日を祝う文言があるわけでもない、それはその花の簡素な情報を記したものだった。
『特徴:光と闇の狭間で生きる貴公子』
僕は思わず苦笑した。光と闇の狭間、じゃなくて完全に闇じゃないのか、君は。そして次の行。
『花言葉:愛国心』

「……ハハ、そう、だよなぁ」

当たり前だ。
彼が自分の目的のために動くのは。
僕より、自分の世界を選ぶのは。
彼は釘を差したのだ。期待なんかしないように。
これは贈り物なんかじゃなくて、もう二度と来ないということの意志表示かもしれない。

あぁそれでも、彼が選んでくれた花束。
覚えていてくれた僕の誕生日。
僕の記憶からまだ消えていない彼。

それだけでもいいなんて綺麗事が彼に通じるとは思わない。けど、どうしても希望を持ってしまう。僕はそんな、彼の翻弄に膝をついて頭を抱えることしかできない、弱い弱い生き物なのだった。



Happy Birthday!椎名さん 2013.9.6.


back