回想〜消せない想い〜



真月零が姿を消した。
元々身元不明の、怪しいところなどいくらもある少年だった。愛らしい笑顔を振りまきながら、僕が記憶を失くしている間に負わせた怪我を盾に、よかれと思って少しの間住まわせて下さい、怪我人出したなんてニュースになったらヤバイですよね?と詰め寄ってきた――半分脅しだった。学校には真面目に通っていたようだったので不良というわけでもないのだろうが、決して見た目通りのドジで善良な少年というわけではない強かさがあった。
僕がそんな馬鹿げた申し出を引き受けた理由の一つには、その素顔に――彼が本当は何を隠し、何を目的に動いているのか、どういう少年なのか、に興味を引かれたのだ。家を貸していれば、それが見えてくるのではないかと。
だが、彼が僕の家にいた間に、それ以上の綻びが見えてきたことはなかった。ドジで善良な少年のままだった。
僕の家に住んでいたのも、何かの都合のためなのだろう。そして帰ってこなくなったのは、彼の言う『少しの間』が終わったということなのだろう。彼の目的は果たされたということなのだろうか。

(…まぁ、もう知る由もないよな)
僕は溜息をついた。確かに得体の知れない少年だったし、まるで真意を見せようともしてくれなかった。けれど、同居人がいるという事実はそれなりに心地良かったのだ。弟、と言うには歳が離れすぎているけど、自分がある程度責任を持たなければならない、年下の少年という存在は生活にメリハリを与えた。零が家に転がり込んでくる前、僕はどうやって生活していたんだっけか、うまく思い出せない。
マンションの階段を上がって、誰も待っていない自分の部屋へ向かう共通廊下を進む。この道を零と二人で歩いたことは元々ほとんどなかった。だから重いのは扉であるはずだった。

「何だ、驚かねぇの?」

僕はそのだいぶ手前で足を止めることになった。
見慣れた、最近は見ていなかった、懐かしいオレンジ色の少年と同じ容姿の、けれど見たこともない装いの少年が、立っていた。

「久しぶりなのにさぁ」
歩みを止めた僕に、彼が近寄ってくる。僕のよく知っている真月零の、慇懃無礼な態度はどこにもない。浮かべる表情も歩き方も、全部違う。
「…君は、零じゃない」
自分でも現実味のない、バカバカしいことを呟いていると思った。どこからどう見ても姿形は零なのだ。けれど別人が操っているとしか思えない立ち居振る舞い。
「零はどこに…」
いる、と続けようとした時、雷光のような閃きが頭を掠める。彼はずっと正体を隠していた。それは僕だって分かっていた。その隠されていたものが、今ここにいる彼なんじゃないのか、と。
「…いや、違う、零か…」
呟きながら、それも正解ではない、と直感が囁く。もしそうだとしても、彼はまだ何か隠している気がする。これが本当の正体ではない。

「…これだから大人は面倒だぜ」
彼を舐めるように観察していた僕に、零は悪意に満ちた顔で肩を竦めてそう言った。
いや、悪意に満ちていた、んだけど。
たった一瞬、本当に瞬きする直前に、切ない光がその紫色の瞳を掠めた。

「そう、面倒なんだよねェ、俺のこと知ってる大人がいるってのはさァ。何か起こされちゃ困るし、アンタに俺をキレーサッパリ忘れてもらおうと思ってもう一回来てやったんだよォ」
それは本当に一瞬でしかなくて、次の瞬間からの彼はあまりにも邪悪で楽しそうだった。見間違いかと思うほどに。
「…どういうことだ」
「知る必要はないんじゃねぇの?」
なるべく彼を乱さないよう、最低限の問いを投げかけても、彼が応える素振りはない。
(……忘れる…記憶を消す、ということか)
考えてみれば、僕が彼に負傷させたのも僕の記憶がない間だった。酒も飲まずに記憶が消えるなんて、人間の常識では説明できないこと、でも、彼に関わる時にはそれが多かった。零がその人間離れした力を持っている、ということは今までのことと矛盾しない。彼がその気なら、本当に零といた時の僕の記憶を全部消し去ってしまうことだって可能なのかもしれない。

けれど、あの光。
本当に気のせいなんだろうか。
もし零が人間離れした何かだったとしても、心というものを持った生命体である限り、本当になかったことにしていいのだろうか?

「…消せるのか、本当に?」
「…何?」
試しに、僕は石を投げてみることにした。零は笑みを消して眉を跳ね上げる。反応はあった。やはり何かはあるのかもしれない。僕はさらに踏み込んだ。
「僕が君を忘れて、君は本当に平気なのかな、零」

ところが、零はしばらく僕の言っていることが理解できないような顔をした後、ギャハハというような声を上げて笑い出した。やはり、僕の知っている彼は出したことのない笑い声。
「はぁあ?傑作だぜ!何勘違いしてんだよ、テメェなんか宿でしかなかったんだって!」
けれど、いまやそのことで彼が零でないとは思えなかった。彼は間違いなく零なのだ。元々僕が知っている彼なんてほんの一面にしかすぎない。――でもその一面を知っているからこそ、僕が彼に対してできることは本当に忘れることだけか。
あの光、知っている、さっきまで僕が柄にもなく感じていた心だ。
寂しいと思う気持ちだ。

僕は思い切って、まだ高笑いを続けている零を引き寄せ、強く抱き締めた。
「は!?何しやがるんだよ、離せ気色悪ぃ!」
あぁ、こうして腕の中に収めると分かる、零の体は冷たかった。人間じゃないのだと言われてもまるで不思議じゃない。
けれど同時に、小さかった。
心を許せる相手もなく、僕の記憶からも消えようとして、たった独りで戦おうとしているには、あまりにも小さすぎた。

「僕が忘れてしまうなら、君は覚えていてくれるのかな」
「!」
零が暴れるのをやめた。
「だとしたら、忘れないで。君は独りじゃない。君が何者でも、今君を忘れても、僕はまたいつでも君を迎えてあげる」

腕の中の零が、降参したのが分かった。ほら、やっぱり気のせいなんかじゃなかった。

「……俺は、もう来ねぇよ」
「だとしてもだよ」
「元々人間なんかじゃなかったけど、余計に違うモンになっちまった。あんたみたいなその辺の奴に手に負える代物じゃねえんだよ」
「……」
「忘れちまいな、俺のことなんか」
「なんか、なんて言うものじゃないよ」

少しの間しか一緒にいなかったけれど、君が何者なのかなんて分からないけど、それでもそれくらいはいつでも見抜ける目は持っているつもりなんだよ。
君の力に逆らう術は持っていないけど、たとえ記憶を消されても、何度でもまた見抜いてみせる。

だから、また、いつでも会いにおいで。


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片零意外と楽しいです