伝染性キシリトール
呼びつけておいて、何という無礼だろう。
それを咎める気があまり起こらないのは、しかし、彼がいつも飛んだり跳ねたりしながら何を背負っているのか分かっているからだった。
さらに言えば、屋根裏のむき出しの床の上で本意でなく意識を手放したのだろう彼は、想像していたようなあどけない表情というよりは、らしくもなく眉を寄せて難しい寝顔をしていたのだった。
『今度カイトがうちに来ないか?』
そんなメールが入ったのは2日ほど前のことだった。
いつもは、用があったりオレに会いたがったりした時、遊馬はこちらの都合も聞かずに押しかけてくる。それをわざわざオレを呼び出して、日程を調整してまでとは恐れ入る。
『何か用なのか』
と返せば、
『いや、カイトにオレの部屋見てもらいたいなってだけだけど。忙しかったら別にいいぜ』
とのことだった。
遊馬がオレを呼び出すのは初めてのことではないが、そんなに頻繁にあったわけでもない。まして、遊馬が見ている時に遊馬の部屋に入ったこともない――以前、遊馬の不在に一度か二度、侵入したことはあるが。だがまさかここで見たことがあるからいいなどとは言えず、かと言って忙しいからと突き放すにも忍びない――活字から伝わる遊馬のテンションはあまり芳しくなかった。
『たまにはいいだろう』
『えっマジ!?』
彼がそう言い出したからには、深刻なのか下らないのかはともかく、何かオレを部屋に入れたい理由があるのだろう。だとすれば、たとえばそれが後者で無駄足になったのだとしても、一度くらいなら付き合ってやってもいい。
「アノ、カイト様、オイラハ…アノ…」
「お前はここで待て」
「カ、カシコマリ…」
そういう経緯で、何か言いたそうなオービタルを無視して屋根の上で待たせ、指定された時間にこの部屋の窓を潜ったオレが見出したものは、前述の通り、床の上で眉間に皺を刻んで、うずくまるようにして眠っている遊馬だった。
「……」
せめて間抜けな顔で寝ていれば呆れられるものを、こんな様子を見せられれば調子が狂う。いつもあれだけ能天気そうに見えて、遊馬が悪夢を見ることは珍しくないと聞いていた。具体的な内容まで聞いたことはそう多くないが、ミザエルに敗れることも夢に見ていたらしい。負ければアストラルが消える宿命を背負っている身だ、悪夢くらい当然と言えば当然の重圧なのかもしれない。
オレは遊馬が突っ伏している床の横に、音を立てないよう腰を下ろした。
「……」
見下ろす自分の目がどうなっているのか、オレにも想像がつかなかった。ハルトとは違う、だがこうして見れば小さな体を、オレを慕うまっすぐな光を、いとおしいと思わないと言えば嘘になる。
「…やだよォ…」
「!」
そこで、遊馬がいきなり声を上げた。驚かされたが、よく見ると目が覚めたわけではないらしい。寝言という奴か。実際に言っている奴を見るのは珍しい。
「カイトも…一緒に…」
と思ったら、どうやら遊馬の夢にはオレが登場しているらしい。そう呟いた後、遊馬のしかめた目頭から、うっすらと涙が滲んだ。
(…オレを失う夢か)
思わず目が細くなる。今の状況で、それが絶対に起こらないとは限らないことだ。現時点では事なきを得ているが、ミザエルも他のバリアンも凄まじい強敵であることは確かで、しかも敗北は死に直結する。オレたちだけでなく、この世界全体の死に。
「カイト…」
「……」
寝言に返事をしてはいけないと聞く。オレは、九十九遊馬という男のことは一人前の戦いの担い手として認識しているし、甘やかすつもりも毛頭ない。だが同時に、今オレを呼んで泣いているのは、本来そんな重責を担うには体も心も幼すぎる子供なのだ。ついこの前まで、両親を失った悲しみを抱えながら、父の言いつけを守って楽しく暮らしていただけの。
この子供がこれからどんな過酷な運命を乗り越えなければならないのかは分からない。だが、その中にオレを失わせることは絶対に含ませない。オレの命を繋いだのは遊馬なのだ。残りの命はすべて、お前の望みを叶えるために使ってやりたい。直接与えるのではなく、オレのできる形で。
(…だから、オレを失くして泣くな)
その決意を表して、また彼が眠っているという免罪符に背を押されて、オレは身を屈めた。うなされる遊馬のこめかみに唇で触れる。その柔らかい感触は、こいつがハルトとさして変わらない年齢であることを証明していた。
「うわっ!!嘘ォ、オレ寝てた!?」
オレがそのまま床に座って窓の外を眺めていると、遊馬はしばらく浅い眠りを繰り返し、そうは時間が経たないうちに目を覚ました。
「いい度胸だ」
「悪ぃ!」
オレが心底呆れた声を出せば、遊馬は平身低頭といった体で、その実まるで深刻には捉えていないようだった。溜息をつくことしかできない。
「あっでもな、オレさっきすっげえいい夢見てたんだ!」
オレは片目を開けた。いい夢には見えなかったが。
「ほう、どんなだ」
試しに聞いてみると、
「…うーん?そう言われると具体的には覚えてないんだけど。なんか途中までは怖かったんだけどさ、途中からすっごく良くなったんだ!」
という、底抜けに明るい答えだった。
「……」
オレは片手で頭を抱えた。途中までは、途中から、その境界になったのは、恐らく。
「…良かったな」
呆れ果てたことだ。こいつはそんなに、無意識の出来事を夢に反映させるまでに、オレを慕っているということか。
「えっ!何今のもう一回!」
そこで遊馬がそんなことを言って、ハッとした。今、表情に力を入れるのを忘れていた。
「……」
不覚だ。恐らく無様な緩み方をしていただろう。手で隠していたからまだ良かったが、それでも遊馬の興味は十分引いてしまっている。
「なぁもう一回〜」
遊馬がオレの顔に当てた手を、腕にぶら下がるような格好で剥がしにかかる。それ自体は別に構わないので手はすぐ下ろしてやったが、
「やかましい…」
「頼むよ〜」
その要求には応えられない。
不意に気付くと、遊馬が静かになって、思い出したように目を丸くしてオレの目を見て――恐らく見とれていた。一連の騒ぎで遊馬はオレの手を握ったままで、互いの距離も普段よりずっと近い。オレが目を細めると、遊馬がそれを合図にして更に近寄ってきた。その距離がゼロになることを、咎める気は何故か起こらなかった。
「…満足か」
「へへっ」
遊馬の明るい甘さは伝染し、オレのあるべき緊張までふやかして緩めてくる。
それなのに、その甘さは胸を焼かず、清涼感に満ちてすがすがしい。
大人と子供、強さと弱さだけでなく、様々な矛盾を孕んで、それでも尚真っ直ぐ、それが九十九遊馬という少年だった。
この涼やかな甘露をオレが守るということはなくとも、彼を裂こうとする者に、オレは決して容赦はしない。
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いちゃほもを生産しよう計画を企てた時の産物 一人だけめっちゃ遅れましたスイマセン