解けない飴は噛み砕け
珍しいこともあるものだ。
遊馬がオレを訪れる時、たいていはバリアンとの戦いの関連で重要な用があるか、デュエルを挑みに来るかのほぼ二択しかなかった。
それが、いつも通りにデッキやD・パッドを携えてはいるものの、学校の制服を着たままで、その手に重要そうな力の入れ方で持っているのは一枚の別の紙。
「お願いが…ありまして」
そして、気色悪いと言っても過言ではないほどの似合わなさで繰り出される敬語ときたものだ。
「……何だ」
あまり良い予感はしないと思いながら先を促すと、遊馬は泣きそうな目はそのままに、その手に持っていた紙を心から嫌そうにオレに差し出しながら、
「勉強…教えてください……」
と絞り出すように言ったのだった。
遊馬の成績が芳しくないという話は聞いていて、それはこいつの日頃の行動とそう矛盾するものでもなかったので、特に不思議にも思わず無関心でいたものだった。それがこうしてオレの手もとに舞い込んでこようとは。こいつと戦っていた時分から考えればそれこそ思いも寄らないことだった。
遊馬がデュエルを差し置いてまで勉強を、しかも最も身近な場所にいるわけではないオレに助けを求めてくるとは、よほど切迫した事情があるのだろう――詳しく聞けば案の定、追試に追試を重ねた末のことで、ついに彼の姉が再びデュエルを禁止するまでに至ったとのことだった。追試に合格すれば解禁にする、とも。
遊馬が馬鹿なのは承知の上だが、それでも中学一年の内容などたかが知れているだろう。何故そこまで追試を重ねる羽目に陥ったんだ。ましてこいつには全知全能の記憶を取り戻したアストラルだってついていただろうに。
「何が分からないんだ」
普段の勢いが嘘のように萎れた様子の遊馬に聞けば、
「何がわかんねーのかもわかんねーよォ」
遊馬自身お手上げのようなそんな答えが返ってくる。まぁ、そうでなければこんなことにはなっていないか。
「見せてみろ」
現物を見た方が早いかもしれない。オレは遊馬が握り締めたままでくしゃくしゃになっているその紙――赤点の烙印が押された答案用紙に手を差し出した。
「………」
遊馬が再度、この世の終わりのような顔をしながら渡してきたそのテストを、ざっと見る。科目は数学。問題も同じ紙に小さく示されていた。
「……」
オレは完全に呆れた渋面をしていただろうか。遊馬の答案は想像以上にひどい有様だった。複雑な文章題ではなく、簡単な計算問題から空白なのだ。これは手がかかって、成す術なくオレまで持ってくるのも無理はない。
「やっぱもういい!帰る!」
「待て」
遊馬が、羞恥心に耐え切れなくなったように立ち上がるその後ろ襟を掴む。ここまで来て面子もプライドもあったものではないだろうに。
「……ん」
さらに問題と遊馬の答案を見比べるに当たり、オレは一つのことに気づいた。
単純な計算ミスによる誤答はともかく、答えが全くの空白になっている問題には、すべて共通項があった。
負の数と負の数を掛け合わせる、あるいは割る――答えが正の数になる問題で、悉く遊馬は答えを書いていなかった。
「……遊馬、これはどういうことだ」
「え」
オレがそれを指摘すると、遊馬は、またそれかと言うような目をして、口を渋い形に変化させた後、ぼそぼそと呟くように言った。
「…だって、マイナスがマイナス個あったらプラスになるなんて、どーいうことかわかんねーんだもん…」
「……」
オレは、そこでようやく身近な人間が匙を投げたものの正体を知ることになった。遊馬はただ馬鹿で計算ができなかったのではないのだ。
「わかってねーことを、そーいうもんだって書くの気持ち悪いじゃん…」
現象として理解できないことを受け入れることを、拒否していたのだ。
「……」
オレは、言葉を失わざるを得なかった。問題は、遊馬が馬鹿で点数が取れないということをはるかに越えていたのだ。それでは、何度そういうものだと教えても点数が上がらないのは当然の話だ。
オレは――オレだけではない、大多数の人間は、初めてその公式を目にした時、そういうものだと割り切ってしまうだろう。特に疑問も抱かずに、点数を取って、それを使いこなしている気になるだろう。
「……お前は、天才なのかもしれんな」
「え?」
こうして原理に対する疑問を抱くことができるのは、将来大成する器であることの証かもしれない。
「マジ?オレ天才?やったー」
「調子に乗るな」
そうしてオレが思わず零した一言をとらえて、いつものように調子に乗ろうとする遊馬を、オレは一刀両断した。
「それはこういうツールを使いこなせるようになってからの話だ。何が分からないのか分からないと言っているようではまだまだだ」
「えー…」
遊馬は見る見る再び萎れていく。まったく、根底にきらめくような才能の可能性を持っている割に、脊髄反射で単細胞なのは相変わらずだ。
「もう一度聞く。何が分からないんだ」
「……わかんねえ」
「何が。分からないんだ」
答えを濁そうとする遊馬に、再度強く迫る。遊馬は、苦虫を噛み潰したような顔になりながら、渋々それを白状するように口にした。
「マイナスがマイナス個あったら、プラスになること…」
そういう、自分に足りないことを口にする度に、遊馬はいちいちこれでもかと言うほど小さくなって、バツの悪そうな顔を繰り返す。
こいつがこれまで、こう見えて、他人に甘えたり寄りかかったりしてこなかったことの証だ。
「そうだろうが。考えを放棄する癖をやめろ」
「……うー…だって、バカにされるかと思ってよぉ…」
「今更だ」
「ひ、ひでぇ…」
押し問答を繰り返していても仕方がない。オレは皺のついた答案を広げて、一番上にある問題を指し示した。
「確かに、そういう考え方をすると、その現象を理解するのは難しい」
「……」
遊馬は何に驚いたのか、目を円くして、あどけない表情でオレを見た。オレがちらと目を返すと、慌てたように答案に目を戻す。
「だからこう割り切れ」
それを受けて、オレは説明を続けながら、青いペンで問題の下に式を書き換えたものを書き加えた。
「マイナスを全部外に出す。このマイナスは、『プラスとマイナスを逆にする魔法カード』だとでも思っておけ」
「魔法…カード…」
「その上でまずこの内側の式を解く。3が2個あったらどうなる」
「…6」
「そこにこの魔法を2回作用させると?」
「6…になる…」
青い筆跡を残すオレの手をじっと見ながら、遊馬はオレの誘導についてきた。
「……そーいうもんなの?」
しかし、正答に辿り着いても、目を上げた遊馬はまだ噛み砕ききれないような顔をしていた。――それはそうだろう、今までも、その正答自体に辿り着けなかったわけではなく、それに納得できなかっただけなのだから。
「では聞くが、そもそもマイナス3が2個あるとマイナス6になるということなら理解できていると言えるのか?マイナス3とは何だ」
「……」
オレが意趣返しのようなことを問えば、遊馬は答えに詰まっているようだった。それはそうだろう。こうして原理に向き合う時、普段明確な答えを導くはずの数学は、答えの出ない哲学に姿を変える。
「言い出したらキリがない」
オレは青いペンを置いて、まだどこか泣きそうな顔をしている遊馬に向き合った。
「その真実が知りたければ、この先それを調べるチャンスはいくらもある。それを専門に研究する分野も存在している。だがそれを理解するためには、お前はもっと多くのことを知らなければならない。それはこのツールを使いこなした先にあるものだ」
「……」
「ここでそれに固執して置いていかれたら、お前はそこで留まったまま、才能を活かす機会を永遠に失うかもしれないぞ」
すでに数学ひとつでも、学校のカリキュラムは負の数の乗除をとうに過ぎて先に進んでいるはずだ。納得できない子供を置いていくようなシステムはいかがなものかと思うが、現状がこれである以上、そのシステムに取り返しのつかないほどの遅れをとることは損失でしかない。
「でも…別に、わかんねーだけで興味あるわけじゃないっていうか…興味あるのデュエルのことだけだし」
遊馬はなおも不服そうに、弱々しく反論してきた。言っていること自体は勉強を嫌がる駄々のようなものだが、こういう我儘の類を零せるようになったこと自体は悪くない。
「だとしたらそんなどうでもいいことでデュエルへの道が閉じるのはもっと馬鹿馬鹿しいだろうが。義務教育の単位を取れなかったら、家族だけでなく世間も、デュエルの道を進むことを許さなくなるぞ」
「げぇッ。それはダメ!それは困る!」
「ならさっさと片付けることだ」
「うー…」
オレがそう言って退路を断つと、遊馬は渋々オレが持っていた青いペンを手にとって、ようやく答案に向き合った。
「このマイナスは魔法…このマイナスは魔法…」
一度その原理を飲み込んでしまえば、そのテストの問題はそう難易度に飛躍があるわけでもない。遊馬がそう呟きながら今まで空白にしてきた問題の答えを埋めるのを、オレは横で眺めているだけで良かった。
「……カイトはすげぇよな」
そうしてオレが頬杖をついていたら、それまで呪詛のようにマイナスについて呟いていた遊馬が、突然ほろりと表情を和らげて、そんなことを言い出した。
「は?」
このタイミングでオレに対する称賛が何故出てくるのか分からず、最短の言葉で聞き返すと、
「今まで、オレのこと納得させられねえって、先生もアストラルも、みんなお手上げだって言ってたんだ」
遊馬はそんなことを言って、らしくもなく穏やかに微笑んでいた。
「カイトが初めてだぜ。オレのわかんねえって気持ちまでわかってくれたの」
遊馬は答案から目を上げて、オレを見てはっきりと笑った。
「……」
他の誰もが匙を投げた時、遊馬がオレを頼ったのは、そういう嗅覚が働いたからかもしれない。オレであれば、頭ごなしに定義を押し付けたりはしないだろうと。オレとの敵対と和解を通じて、遊馬は、厳しい顔しか向けてこなかったオレの本質を随分と察知してしまったらしい。
だが、それはオレの方も同じこと。
「…デュエルをすれば相手を理解できると言ったのはお前だろう」
「え?」
「お前がオレを理解したように、オレもお前のことを理解しているということだ」
弾かれたように目を円くする遊馬の頭を撫でながら、オレはどういう笑い方をしていたのだろう。
「お前は、甘いが頑固な奴だからな」
そう言ってやった後の遊馬が、見る見るその表情を綻ばせ、
「へへ…」
少し頬を赤らめながら幸せそうに微笑むのを目の当たりにできるのは、恐らく、オレにとってもとろけるほどに至上の幸福なのだ。
***********
「カイトー!デュエルしようぜ!」
次に遊馬がオレのところを訪れた時、遊馬は完全にいつもの明るさと騒がしさを取り戻していた。
「その前に。追試はどうだった」
「うぐ」
そのまま飛びついてこようという勢いの遊馬を片手で制し、オレが確認すべきを尋ねると、遊馬はまたも喉に言葉を詰まらせた後、渋々鞄の中を探った。
「なんとか…合格しました…」
そして、バツが悪そうにはにかみながら、その紙をオレに差し出した。
オレがそれを受け取ると、確かに辛くも合格点を示す数字が左上に赤字で書かれていた。その下によくできました、というようなコメントもある。
(ギリギリすぎる…)
オレがその点数にため息をつきながら、その答案の中身に目を走らせると、
「……」
並ぶ遊馬の拙い筆跡に、オレは思わず口角を上げることになった。
「まだまだだな」
「そりゃあよぉ…」
オレがその答案を返すと、遊馬は苦笑いしながらそれを片付けて、再度デュエルと騒ぎ出した。
遊馬は、オレが教えたところだけは、全ての問題で正答を導いていたのだった。
溶かしきれない疑問を、オレの言葉を想って噛み砕いた跡が、そこにはあったのだった。
敵対していた頃から少しも変わらない、自分のことを省みないほどのオレへの愛を、こんなところでまで遊馬は、精一杯表現してみせるのだった。
Happy Birthday!園村さん 2014.3.13.
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