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「ねぇセンパイ、俺帰りたくないな」

何言ってるんだ、親御さんが心配、と言い返そうとして、言葉が喉に引っかかった。

何を言われたわけでもないのに分かってしまった。
狩屋には、『家』がないんだ。

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青い髪で獰猛な目をした生意気な後輩にとんでもない目に遭わされてから1ヶ月程度が経った。その間に錦が帰ってきたり影山っていう新入部員が更に入ってきたりして、部活の雰囲気は目まぐるしく変化したから、何となくうやむやになったというのもあるけど、その記憶もだいぶ薄れてきた頃だった。
最初のアレは何だったのかというくらい、狩屋の俺に対する態度からはとげとげしさが取れていた。もちろんまだ素直じゃない反応が返ってくることもあるけど、サッカーでの連携もうまくいくようになってきたし、1年の間でもうまく溶け込んでいるようだった。学校の中、1対1ですれ違ったとしても普通に挨拶をくれるようになったし、その時もそれ以外の時も、あの二面性が際立ったような笑い方でなく、両方の面が混ざり合ったような笑顔になってきたと思う。警戒心から自衛のための牙を剥くのをやめて、自然体で溶け込めるようになったんだろう。
とは言え、出会い端があれだったので、俺にとっては他の後輩に比べて未だに印象というかインパクトに残る存在なのは仕方がないだろう。あの時あんな態度を向けられたのは全学年通じて俺だけだった、と言うのも気にならないと言えば嘘になる。ただ最初に注意をしたから、っていうだけならいいんだけど、俺自身に歯向かいたくなるような何かがあったんだろうか?ただ、今更蒸し返すのもおかしい気がして、本人に聞くっていうのも何だか。

「はぁ〜つっかれたぁ〜!!」
厳しい練習を終えた後の部室は、そんな声が響くことが多い。主にその声の主は天馬や西園で、サッカーが好きだという気持ちが真っ直ぐなのと同じように、そういった疲れとかそういうことを声を出すのにも憚りがないのだった。けれど、一見こういう時率先して文句を言いそうな狩屋は、そういうことは一言も言わなかった。その声に答えることもなく、黙々と着替えを続けている。
それに関してははっきりと意外だった。彼が屈折した性格ではあれサッカーが好きだということは一連の騒動の時よく分かったけれど、それだけ好きなサッカーに対してはどんなに練習がきつくても真摯に向き合っているということなのだろうか?でもそれにしても。
「じゃ、お先に」
「お疲れ様でーす!!」
他のチームメイトより一足早く身支度を済ませ、そう言うと、1年の無邪気な声が追いかけてくる。けど、当然と言えば当然ながらその声の中に狩屋の声は入っていなかった。


もうすぐ神童のピアノのコンクールがあるはずだった。今日は練習の後その時に渡せる何かを探そうと思っていた。普通の発表会とか演奏会なら花束を渡すものなのだろうけど、お披露目のためではなく審査の対象としての演奏をする場であるコンクールでは、受賞でもしない限り花束では少しおかしい感じがする。多分、簡単なお菓子とかがいいんだろうけど、俺の手に届く値段であいつの舌を満足させられる菓子なんて存在するんだろうか?
(いや、こういうのは気持ちだから…)
普段ならまずお世話になることのないデパ地下を制服のままうろつく場違いな中学生となりながら、俺はあれこれと見て回った。たとえ量が少なくても神童が普段食べてるやつより質が満たなくても、応援しているという思いが伝わればいいんだ。かと言ってあまりに質に落差がありすぎるのも嫌だから、選ぶ目は真剣になる。まぁ日程的には今日決めて買わなければならないというわけでもないから、焦りすぎることもない。味見できるやつはしてみたり、目ぼしいところのパンフレットを取ったりしながら、俺はそれなりの時間をかけてそのフロアを回った。
そんなことをしてたから、地下から地上に上がった時には結構な時間が経っていて、辺りは暗くなっていた。よく見たら、本降りの雨も降っている。デパートに入った時にはその気配もなかったのに。
(うわ、マジかよ…)
確かカバンの中に折り畳みは入れていたけど、気分が萎えるのは避けられない。仕方なく小さな折り畳み傘を開いて、俺は雨の中慣れない帰り道についた。
学校からデパートに行く道は学校から家に帰る道とは反対方向だったけど、デパートから家に帰るのは学校を通らない方が近い道がある。とは言っても、学校の近くには変わりなく、この辺りに住んでる生徒も多いから、この道でも同じ制服を着た生徒に出くわすことは珍しくない。とは言え、今日は雨だし、部活の後で時間も遅いし、そんなこともないだろうと思っていた。
そう思った矢先、川沿いにある少し広めの公園を通った時、雨の音に混ざってリフティングのような音が聞こえてきたような気がした。
(……え、)
何となく覗き込んだ俺の目が他と間違えようのない青い髪を捉えたのと、そいつがコントロールを誤って俺の足元にボールが転がってきたのはほぼ同時だった。
「……霧野センパイ?」
「…狩屋…」
狩屋の方も驚いていたようで、互いにしばらくそれ以上言葉が出なかった。


とりあえず転がってきたボールを拾って、狩屋のところに歩いていく。狩屋は観念したのか何なのか少しも動かなかった。ボールはずいぶん古いものだったけど、それ以上に泥だらけで水も吸って重くなっている。こいつは何時間ここでこうしていたんだろう?
ボールを返してやりながら小さい傘を何とか差しかけてやったら、反射的に狩屋は全身身震いした。その様子を見て、俺は急に我に返った。
「お前、何してるんだ!風邪引くぞ!」
俺は急いでカバンからタオルを探し出して、水が垂れてるとかではなくもはや流れているその頭とか体を拭ってやった。狩屋は何を考えているのか大人しくされるがままになっていた。濡れて寒くなり抵抗する気力がなかっただけかもしれない。
「部活の後ずっとやってたのか?雨が降った時点でなんでやめなかった?」
「……」
「練習熱心なのは結構だけどこんな天気の時にどうして」
「………」
「狩屋、聞いてるのか?」
俺は思わず、何も答えない狩屋の肩を掴んで揺さぶった。肩はタオルなんかじゃ全く太刀打ちできないくらい、まだずぶ濡れだった。
それで仕方なさそうに俺の目を見た狩屋の目は、虚ろだったけど、焦点は間違いなくはっきりしていた。
「……」
俺は何も言えなくなった。
この行動とこの目の虚空は同じものだ。
狩屋が、俺には多分絶対に共感でき得ない経験をしてきたことを映し出しているんだと、直感した。
「……センパイ、優しっすね」
「……」
「前から思ってたけどさ」
逆に何も答えられなくなった俺に、狩屋は呟くようにそう言った。その声も嗄れていて、多分水分補給もしないでいたのだろうと思った。
「……とにかく、もう帰るぞ。送っていくから」
少なくとも、先輩として後輩をこのままここに放置して帰るわけにはいかない。俺はその肩を掴んだ手で二、三回その肩を叩いてそう言った。そういえばこいつがどこに住んでるのか知らないことに思い至る。この様子でどうなるか分からないが、本人に案内してもらう他ないだろう。

「ねぇセンパイ」
そしたら、狩屋がその俺の手を逆に掴んで、
「俺帰りたくないな」
今まで見たことないタイプの笑い方をした。
必死で悪い笑みを作ろうとして、瓦解したような笑い方だと思った。

それを見たら、何言ってるんだ親御さんが心配、と言い返そうとした言葉が喉に引っかかった。

言葉で何を言われたわけでもないのに分かってしまった。
狩屋には、『家』がないんだ。
当たり前に帰りたいと思う家が、親が、家族がいないんだ。
その孤独が、自分を見て欲しいという衝動が、あの悪意ある行動や悪戯の数々に現れ、こういう行動に現れているんだろう。

「……狩屋、雷門は、サッカー部は楽しいか?」
一見脈絡ない質問が口から滑り出た。狩屋は少し目を丸くしたけど、すぐ力の抜けたような笑いを息に乗せた。
「何ソレ、意味わかんない」
けどその表情とか声とかが、俺の質問の意図を分かってくれているような気がして、そして肯定の答えのような気がして、俺は思わず微笑んでいた。

そしてその直後、俺はそのずぶ濡れのままの頭にゲンコツを食らわせる。
「イテッ!」
そう強くもなかったのに狩屋は大げさに頭を抱えて叫んだ。
「いいから帰るんだよ。早く準備しろ」
「何だよソレ!パワハラ反対!先輩の立場をカサにきた暴行だし!」
「傘だけにな」
「うまいこといってんじゃねー!」


親代わりになってやる気は流石にないけど、雷門のみんなが、俺が、狩屋の『家』に代わる場所になれたらいい、と思う。
まだまだそれには時間はかかるかもしれないけど、その兆しは確かにあるだろう。
それまで気長に、こいつのわがままに付き合ってやるのも、多分悪くはない。



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蘭マサ習作。夢でチャリを二ケツする二人が出てきたのでいつか書けたらいいナ