Tomorrow Never Knows
※カイ遊
初夏の優しい暑さを降り注がせる陽光の下、3人の中学生の影が帰路を辿っている。
その中の一人――とりわけ元気に地を蹴って跳ね回っている少年、九十九遊馬は、自らに言い聞かせていた。
あと少し、あとほんのちょっとだ。あの上り坂のまんなか、もう目の前に見えてるあの角を、曲がるまでの数歩、たったそれだけ。
それまでは、死んでも笑っていろ。
「じゃあなーっ!」
「気をつけてね、遊馬!」
二人の幼馴染――遊馬のため、強大な敵となってしまった想い人に立ち向かって戦った少年と、遊馬とどんな時も寄り添い、すべての戦いもどんな悲劇も共に目にした少女が、遊馬に声をかける。
「おう、また明日な!」
遊馬は振り返って、その二人に対し、太陽のような笑みを返して片手を振り上げた。
軽い足取りで走りながら、遊馬は二人と帰路が分かれる角を曲がり、
「よく耐えた」
その姿がもとの道から完全に隠れるところまで来たところで、待っていた男の腕一本に支えられて、辛うじて地面と顔面が接するのを免れ得た。
「……ッ、う…」
遊馬は、少しも表情を変えず、彼の顔も見ようとしないその男――天城カイトの腕にしがみついて、先ほどまでの明るく温かい笑顔が嘘のように蒼白な顔で、がちがちと歯の根の合わない音を立てて震えていた。
***********
それは、毎日ではなかった。
突然騙し討ちのようにやってきて、無遠慮に遊馬の体を襲った。特に何かを見た時、どういう行動をした時、というきっかけがあるのでもなかった。原因は分からなかった。寝ている間だろうと、食事をしている間だろうと、今のように、気のおけない――それこそ多少のことでは決して揺らがない友情で結ばれた友人たちと、下らない話で普通に談笑をしている最中であろうと、容赦なく訪れるのだった。
バリアン世界との戦いで、遊馬が失ったものは多かった。
一見して、それはアストラルの行使したヌメロンコードによってすべて取り戻されている。だが、それは遊馬の手によって取り戻されたと言える結果ではなかった。
遊馬が、心から愛するデュエルで、心から愛する仲間を取り戻す、あるいは守るための道を見つけることができなかった、ということは、たとえヌメロンコードでも書き換えることのできない重い事実として、遊馬自身知らないうちに、その心身に食い込んでいたのだった。
それが体の症状としてまで出るようになったのは、しかし、戦いが終わってからしばらく経ってからだった。
最初の『発作』は、遊馬が、取り戻されたこの平和にも慣れてきたな、とはっきりと思ったある夜にやってきた。深夜、眠っている時に、突然に呼吸が言うことをきかなくなったのだ。
「…!?……!!…、!」
目覚めれば息が苦しくなっている現状に訳も分からないまま、汗だくになりながら苦しがって転がっているうちに――時間に直せば5分程度で、それは収まった。そのまま遊馬が力尽きるように眠りに落ち、再び目覚めた次の朝には、何事もなかったように、痕跡すらなく通常に戻っていた。
(……?なんだったんだ?溺れる夢でも見てたんだっけ。覚えてねえけど…)
原因も分からなかったが、その後すぐに再発する気配も見られなかった。対処しようにも、少なくとも現時点では症状がないのだから、様子を見る他はなさそうだと遊馬は判断した。
そのまま数週間が何事もなく経ち、遊馬自身、あれは何だったのか、もしかしたら夢だったのかと思うような頃合になって、次の『発作』は訪れた。
(……なん、だ、これ……)
今度は、呼吸ではなかった。何の脈絡もなく、寒くて仕方がなくなったのだ。気候としてはどちらかと言えば少し暑いくらいの日だったのに、まるで氷点下100度の冷気にでも晒されているかのような徹底的な寒気だ。風邪で発熱している、という次元のものではない。どうやっても、体の震えを止めることができないのだ。
その時は、ひたすらに体を丸めて座り込んだ。そしてそれが、呼吸の時と同じように通り過ぎるのを待った。息ができないことよりはまだ楽だ、そう思おうとしても、体の機能が停止してしまいそうに思えることに関しては、過呼吸の苦しさと大差はなかった。
それから、過呼吸と悪寒の発作は、数日から数週間おきの不定期に遊馬を襲うようになった。その心の強さや魂のランクの正体はともかくとして、身体は人間の13歳の少年の枠を全く越えない遊馬が、抗う術などありようもなかったのだ。
遊馬自身そんな余裕があるわけもないのでその時間を正確に測ったことはなかったが、一つの『発作』は長くて30分、短ければ2、3分で収束するものだった。頻度もそう多いわけではなかった。毎回、前回のことを忘れかけたような頃合に次の発作がやってくる、というサイクルで、その間隔がどんどん短くなっていく、というようなこともない。
また、その他に体の不調が出るわけでもなかった。それ以外のことでは、たとえば健康診断などでも結果は良好そのものだった。そのため遊馬は、この発作が病気に由来するものではないのだ、と確信することになった。
(よくわかんねえけど…心の風邪みたいなもんだろ?放っとけばすぐ良くなるよな)
体の病気でないのなら、それを誰かに相談したり医者にかかろうという気にはならなかった。彼としては、その間だけ何とか人目を避けることができれば、何の問題もないと思っていたのだ。
(良く…なるよな)
否――何の問題もないはずだと思いたかった、というのが正しいかもしれない。
この世界はアストラルが成し遂げた、誰もが皆笑える世界だ。それなのに、他ならないアストラルの相棒だった自分が、こんな『すぐになくなるに違いない』『よく分からない』ことで、ようやく取り戻された両親や仲間、ずっと見守ってくれた姉や祖母に心配をかけられない。自分のことくらい、自分で何とかしなければならない。
遊馬はそう思い込んでしまっていたのだ。
最初の5、6回は、家にいる時、それも一人でいる時を中心に起こっていた。だが、ある時、それが突然学校でも起こってからは、この発作はところ構わず起こるものなのだということを遊馬は知った。
過呼吸より、冷感の発作の方が頻度が多いようだった。それは一応、遊馬にとっては好都合だった。どちらかと言えば――本当に薄氷の差ではあるが、過呼吸よりは冷感の方が演技で人の目を回避できる部分もあったからだ。それが突然起こった時、何気ない顔をしながらトイレに駆け込み、個室で震えながら収束を待つ、ということが辛くも可能なのは後者だ。呼吸がコントロールを失ってしまったら、どんな演技力を以ってしてもそれをカバーすることはできない。
不思議と、今まで裏表なく生きてきているつもりだったのに、その演技力は知らず知らずのうちに遊馬に備わっていたようだった。そのため、遊馬は何とか誰にも――家族も、友人も、あの戦いの間じゅう隣にいて、今も一番近くにいる小鳥にさえ、その症状を知られずに学校生活を過ごすことに成功していたのだ。
*****
「……か、かい、と…?」
それが、いとも容易く瓦解したのは、決して遊馬の不手際ではなかった。
学校からの帰り道に路地裏に駆け込んで、体じゅうを丸めながら歯を鳴らしている遊馬を発見したのは、ヌメロンコードによって生還した彼の仲間の一人、カイトだった。
「どうした。何をしてる」
「な、なん…で……」
そういう事態になったのは、遊馬の隠れ方が甘かった、というよりは、どちらかと言えばカイトの目が鋭すぎたせいだった。カイトは、普通に通り過ぎていればまず目に留まらないはずの裏道の片隅へと、迷わず真っ直ぐに歩いて遊馬の前まで来たのだ。
「……」
カイトは、尋常ならない様子で蒼白になって震えている彼を見つけても、顔色一つ変えなかった。ただ、その灰色がかった青の双眸で、遊馬の目を正面から見据え、視線を微動だにさせなかった。
(…どう、すんだ……なんで、こんな……)
遊馬は、それを見上げながら、半ばパニックに陥っていた。どうしてカイトがここに来てしまったのか、すでに発作の痛みを抱えている遊馬の頭ではまともな推測はできなかった。次いで、逃げなければ、という思考が咄嗟に閃くも、偽りの寒さに凍りついた体は動こうとしない。万事休すとはこのことだ。
「何も…ねえよ……ちょっと……寒いだけじゃんか」
遊馬は、合わない歯の根を必死に抑えながら、絶望的な思いでそう口を動かした。笑えていないことは分かっていた。その言葉に、何の意味もないことも。
「……」
カイトは、何も言わないまま点滅しているD・ゲイザーを懐にしまうと、うずくまる遊馬の前に膝をついた。――カイトは、通りがかったのではなく、初めから遊馬を目指していたのだった。カイトのD・ゲイザーには、対象となる相手のD・ゲイザーの発している微弱電波を辿る機能がカイトの手によって追加搭載されている。元はハルトのために追加した機能だ。
(……こんなことで役に立つとはな)
カイトは何とも言えない気分で、目の前で怯えきった表情で震えている遊馬に目を戻した。
遊馬の行動は、十分巧妙にカイトの目から逃げていた。もしカイトがここまで遊馬を明確に狙っていなければ、確実に遊馬は逃げおおせていただろう。
*****
月で絶命したカイトの魂がこの世に戻る前、カイトは、ヌメロンコードを司るアストラルに再会していた。
『カイト。私の懺悔を聞いてくれるか』
そして、思いもよらないアストラルの言葉と、見たこともないほど美しい、哀しい笑みを目の当たりにすることになった。
『……懺悔、だと?』
カイトが、かつて自身が口上として使用していた、どうしても引っ掛かるその単語について問い返せば、アストラルはその微笑の形を崩さないまま、ぽつりぽつりと語った。遊馬の魂が、はるか昔に分かたれたアストラルの半身であること。遊馬が戦いながら、仲間を失いながらも必死に探していた、すべてを救い、すべてを前向きに成し遂げる道を、共に見つけてやれなかったこと。望ましくとは言え、その遊馬に自分との別れを飲み込ませてしまったこと。
『私がヌメロンコードを使ったら、遊馬は自分の力が仲間を救うことができなかったことの絶望を、癒すことができなくなってしまうかもしれない…それが分かっていながら、私にはキミたちを帰すことしかできないんだ』
アストラルは、そう言って光り輝きながら回転しているヌメロンコードを見上げた。
『……』
カイトは、言い返すことができなかった。それはアストラルだけの話ではなかった。他ならぬ自分が、遊馬に仲間を――カイト自身を失わせる道しか見つけることができなかったのだ。遊馬に、その細く困難な道を見つけるために必死に戦う遊馬に、最後まで力を添えてやることができなかった。
だからと言って、このままヌメロンコードを使わず、カイトが、あるいは戦った相手であるところのバリアン七皇たちが遊馬のもとから欠け続ければ、それこそ遊馬にとっては、目に見えて絶望的な未来だ。遊馬の笑顔を取り戻すためには、カイトはヌメロンコードの力で遊馬のもとへ帰らなければならない。たとえそれが、ある意味でかえって遊馬の道を折ってしまうのだとしても。
『だから、キミには頼みがあるんだ、カイト』
アストラルはそう言って、最も重大な難題、かつ、彼の心からの願いを、カイトに託したのだった。
遊馬がもし傷を抱えていて、それに自分で気づいてしまったら、誰にも言えずに一人で苦しんでいるはずだ。
それを見つけて、拾い上げて、包んでやってほしい、と。
彼が新しい自分の道を見つけて歩き出すのを、手伝ってやってほしい、と。
遊馬と近しい――同一とも言える存在であるアストラルではなく、異なる存在としてのカイトだからこそ、きっとそれが成し遂げられるはずだ、と。
*****
(……あぁ、ここまでとは)
目の前でがくがくと震え続ける遊馬を前に、カイトは目を眇めた。
想像を、遥かに越える症状だった。少々無理をしている程度なのか、ある程度深刻なのか、カイトは色々なパターンを考えていたが、今の遊馬の様子はそのどれよりも重篤だった。その可能性を知っていながら、長いこと遊馬に一人で苦しませてしまったようだ。
不甲斐ないことをしてしまった、とカイトは眉を寄せた。アストラルに言われていなくても、自分はこの異変に気づくことができたのだろうか。
カイトは、遊馬を怖がらせないように注意しながら、ゆっくりと手を伸ばした。凍えたまま動けずにいるその頬に、そっと触る。こんなに寒がっているのが嘘のように、その肌はみずみずしい温度を保っていた。
「!」
すると、遊馬が目を見開いて肩を跳ねさせた。
「……」
カイトも、それには少し驚いて、目を円くすることになった。
あれほど大振りな戦慄を続けていた遊馬の体が、カイトの手が触れた瞬間、ぴたりと止まったのだ。
(寒さが…きえた?)
遊馬は、信じられない気分だった。あんなに寒くて、通り過ぎるまで耐える以外の何をしても少しも良くならなかったものが、嘘のように消えて無くなっている。カイトは遊馬の顔に指で触っているだけで、触れている面積は指先のほんのわずかな部分だけ――抱きしめられたり、さすられたりしているわけではないというのに。
「……!」
そして、異変はそれだけではなかった。
「……遊馬、お前」
遊馬のその赤い目は、堰を切ったように大粒の涙を零し始めたのだ。
(な、なに、何だこれ)
遊馬自身、ギョッとしていた。自分では、まったく制御ができないのだ。涙だけではない。幻の寒さに凍りついていた体が、その分を取り戻そうとするかのように脈を速くし、抑えていた感情を暴走させようとする。
「……離せ!」
遊馬は恐ろしくなって、カイトの手を振り払った。その瞬間、絶対零度の寒気がまた戻ってきて、再び遊馬の体は震戦を始める。その、自由にならない体を無理矢理ねじるようにカイトに背を向け、遊馬はその場から這って逃げようとした。
「……」
遊馬がカイトに背を向けた方向は袋小路側だ。そうでなかったとしてもそんな状態では、当然逃げおおせるはずはない。カイトは、ものの一歩でそれに追いついて再び膝をつき、少しでも遠ざかろうと虚しくもがくその肩に両手を置いた。
「離してくれって……」
遊馬は半ば絶望しながらそう絞り出した。再び冷感が去り、感情の奔流が両目から溢れ出す。逆らいようもなくぼろぼろと泣き出す遊馬を、カイトはついにそのまま、背後からそっと抱きしめる。
「や…」
物理的にカイトの体温に包まれて、遊馬は心がどんどん溶け出していくのを感じた。硬直が解けるだけではない、そのメッキの内側、奥底に封じ込めて考えないようにしてきた汚い感情――庇護欲や自分中心の甘えた考え、仲間を失った恐怖の記憶まで顕在化しようとしているのだ。
「やだっ…やだよぉ!こんなのって……オレが…オレじゃねえ…!オレじゃなくなるっ!」
遊馬は、カイトの腕の中で寒気の発作とは異なる身震いを走らせた。本能的に、『それ』を表に出すことは、他のどんなことより恐ろしい、おぞましいことだと思った。
「カイト!カイト、頼むよ、なぁっ…」
だが、そこまで締めつけているというような力の入れ方でもないのにも関わらず、どんなに暴れてもカイトの手はびくともしなかった。日頃、誰とも歳の差を意識しない遊馬だったが、こんな時には、18歳と13歳の腕力差は絶望的だ。
「落ち着け」
カイトは、泣き喚く遊馬とは対照的に、大事なものを置くような声の出し方をした。
「落ち着けねえよ!!カイトが離してくんねえと、これ…!」
遊馬は金切り声にも近い声を上げながら暴れている。それを利用するように、カイトは遊馬から一度も手を離さないまま、遊馬の体の向きを自分の側へ返させた。
そして、その両肩にしっかりと手を乗せ、泣き腫らした遊馬の目を正面から見据える。
「向き合え」
その目線と声調が、強くなりすぎないよう、優しくなりすぎないよう、バランスを見極めながら。
「…かいと」
遊馬は呆然と彼の名を繰り返すことしかできなかった。相変わらず心は溶け出して涙が止まらない。それなのに、自分を見つめるカイトの目に、無様なものを見るような色が少しも浮かんでいないのだ。
「お前は九十九遊馬だ。汚かろうが弱かろうが、それがお前という人間だ。目を逸らさずに受け止めてやれ」
カイトは、遊馬の目の中心から片時も視線を外さず、ただゆっくりとまばたきを挟みながらそう言った。
「……オレが、オレを…受け止める……?」
遊馬は口先で呟くようにその言葉を反復した。
それが、『これ』だとカイトは言うのだろうか。この、膿のような汚くておどろおどろしい心の奥底が、向き合って、受け止めなければならない遊馬自身だと言うのだろうか。そんな自分自身の姿を、今まで遊馬は見たことがなかったというのに。
「そうだ。…オレも一緒に向き合ってやる。受け止めてやる」
だが、カイトは否定しなかった。
それどころか、そんな遊馬に芯まで寄り添って、解決するまで付き合ってやる、というようなことを言う。
「……」
今までは自分に厳しかったはずのカイトが、こんなに甘いことを言う。
「……だめだろ…おかしいよ、そんなの…」
遊馬はそう口走りながら、ほぼ無意識に首を横に振っていた。そう、こんな状態は間違っている。認めている相手には厳しい態度をとるカイトが、遊馬にこんな優しい声でものを言ったのは――カイトがまさに命を失おうとしていた時だけだ。死に向かおうとしてもいないのにカイトにこんな物言いをさせるほど、今の遊馬の状態は絶望的だと言うのだろうか。
出会った当初、敵だった頃から、遊馬はカイトのデュエルが憧れだったのだ。遊馬にとって、カイトのデュエルは圧倒的だった。WDCでトロンに一度敗北した以外で、遊馬はカイトに土がついたところを見たことがない。
そして、それはデュエルだけではなかった。真実を見抜く頭脳と鋭い観察眼、どんなに酷な現実からも目を背けない意志の固さ。そして絶対的弱者でない限り誰をも甘やかさない厳しい優しさ。カイトのようになりたい、と何度も思わされるような、どこまでも正しいと思わされるような、しなやかで強いその精神にも心惹かれた。
そんなカイトに見合う――対等に扱ってくれる彼に恥じない自分でいたいと思うから、遊馬は、こんな風に汚い心に振り回されるような無様な実態を受け入れられずにいるのだった。そんな弱さを曝け出せば、カイトに失望されると思い込んでいるのだった。
「……」
カイトは、そんな遊馬の心中を、全てではないにせよ察していた。
遊馬はこれまで、圧倒的な心の強さで周囲の人間を――カイトを含めて――救って回ってきた。誰もが、遊馬の精神、と言えば強いと思い込んでいる。
その自分自身の像を、遊馬は壊すことができないのだ。今まで仲間の中で、強者としての立ち位置しか経験したことのない彼は、『弱者になり方』が分からないのだ。望ましい甘え方が分からないのだ。
(……それは、オレも同じことだな)
カイトは心の中でだけ苦笑する。もし自分がこんな症状を抱えたとしたら、それを治すためにどうしても必要だと分かるまでは、やはり誰かに寄りかかろうとは思わないだろう。皮肉にも、こんなところでもアストラルが言っていた、遊馬とカイトは似ている、ということは浮き彫りになる。
だが当然ながら、遊馬にはカイトとははっきり違う面もある。歳の離れた姉のいる弟で、実際日頃の言動には甘えたような面も目立つのだ。本来、そんな責任を負うことに慣れた心ではないはずだ。
それなのに遊馬は、カイトと同じであろうとしているのだ。押しつけられた強者の像を裏切らないために。
「体の痛みを表に出すということが弱いということではない。…出さないことが強いことでもない。少なくとも、そんなことはオレにもできない。知っているだろう」
カイトは、WDC当時の自分を引き合いに出して遊馬に言い聞かせた。あの時の自分が弱かったと思ってはいないが、体の痛みには耐えられていたとは言い難い。
「……」
遊馬は納得したようなしていないような目をして、何も答えない。それはそうかもしれない。ならいいや、と言って甘えられるようならこんな苦労はしていないだろう。
「それにオレは弱い」
そのためカイトはそう続けて言い――初めて遊馬に向けて、まっすぐに微笑みを浮かべた。
「お前を見捨てる強さが、ないんだ」
「――」
遊馬は絶句してカイトを見返した。
同じだ。それは。遊馬も同じなのだ。
誰も死なせたくなかった。誰とも殺し合いたくなかった。仕方のないことだと諦めることができなかった。――あの戦いでの遊馬と、今カイトが言っていることは同じだった。
『オレで慣れておけ』
あの時、仲間を取り戻せると信じる心の強さは、仲間の死や決別を受容できない弱さと同じではないかと遊馬は思ったのだ。カイトにはカイトの戦う理由があって死地に赴き、助からないと分かれば遊馬に傷を残さないよう最大限配慮してくれた。それが分かっているのに、遊馬はカイトが死に、その命を取り戻す方法が見つからなかったことに傷ついてしまった。
それはシャークや璃緒も同じだった。シャークにはナッシュの歩んできた道や立場があることは分かっていたはずなのに、命懸けの戦いしか選べないシャークを――負けたら死んでも仕方がないと思っているシャークを助ける道を探すことを、どうしても諦めることができなかった。そして、結局それを見つけることができないまま、シャークを死なせた。そうしなければ他の仲間たちを取り返すことができなかったのだ。
「オレ…じぶんかってだったのかなぁ……」
遊馬は涙が溜まったままの目で空を仰いだ。青い空だ。アストラルの取り戻した平穏な世界の空。自分の愛は、身勝手だった上にシャークを守ることができなかった。そのどうしようもない結果を得るために、カイトを、他の仲間も、皆死なせてしまったのだ。遊馬が正しいと信じていた道は、こんなにも無力だった。
自由にならない息と極寒の冷気の幻に苛まれながら、遊馬は何度も迷っていた。あの戦いで遊馬が貫こうとしたかっとビングは、その実、横暴だったのではないか。挑戦によって希望を見出そうとすることを、ありもしない夢物語を見ることと履き違えていたのではないか。そのたび何度も、そんなはずはないと――そうでなければアストラルが分かってくれてヌメロンコードを望ましく使ってくれるわけがないと打ち消して、バカなことを考えるのは止めようと思っても、その疑惑は発作と共に再度やってくる。
そして――それを心の底から打ち明けて話し合いたいアストラルが、今は隣にいないのだ。
「遊馬」
カイトの呼ぶ声で、遊馬は再び目を正面に戻した。カイトは、変わらずにじっと遊馬を見据えている。
「な、なんだよ…?」
そのまま、穏やかな目のまま何も言おうとしないカイトに、遊馬は不穏に思って問い返した。カイトの瞳の色はアストラル世界に似ていて、そうやって見つめられているとアストラルの不在を忘れそうになる。カイトは未だ微笑んでいて、その青はやはり、遊馬に対する失望や侮蔑を少しも抱いていなかった。
そしてその微笑んだままの唇から零されたそれは。
「お前を、愛している」
――存在全肯定のことばだった。
「……」
遊馬がどんな存在でも、汚くても弱くても、たとえそれがカイトを傷つけるのだとしても。その愛情が自分勝手だったとしても――否、だからこそ。カイトは遊馬を肯定し、受け入れて、その上で前へ進むために叩いてやる。
その決意の表れの言葉だった。
「……カイト…」
遊馬は、既に涙で崩壊しきっている目から、別の涙が出てくるような錯覚に陥った。思わず目の前のカイトに抱きついて、その涙を黒いコートに滲ませる。
カイトは何も言わずにしがみつく遊馬の背に手を回し、受け止めていた。
「うあっ…ああーーッ…!」
遊馬は声を上げて泣いていた。これまで行き場なく凍りついていた遊馬の涙が、染み込む場所としてようやくカイトの胸を見つけたのだ。
カイトは微笑んで目を閉じ、遊馬の泣き声を聞いていた。自分の持つ愛が、遊馬が輝く方法を取り戻す切欠になるのなら、いくらでも差し出してやろうと思った。
*****
「これから、オレの前では一切隠すな」
遊馬の涙が一段落して、カイトが手を離しても寒さが復活しなくなってから、カイトは、遊馬が心に溜めた膿を出し切るまでカイトの前でだけは一切無理をしない、ということを決めさせた。
「このまま無理を続ければ、体だけでなく心も折れてしまう。そうなる前に、体の膿はすべて出せ」
「おう……」
遊馬は納得しきらないような声ではあったものの、反論はせずに頷いた。カイトの言うことはもっともだったし、逆にここまで知られて隠していても仕方がないとも思ったのだろう。何より、カイトに触れられていれば発作の症状自体は収まるのだ。一人で無様に震えているのは無益でしかない。
だが――遊馬は、不安にも思っていた。一方で、カイトに触られている間、遊馬は感情のコントロールができなくなる傾向がある。今は涙が止まらないだけで済んでいるが、そのうち自分でも何を言い出すか分からない恐ろしさがあった。それが本心ではない、口が過ぎただけだというのならともかく、出てくるのは紛れもない本心なのだ。もしかしたら、自分でも気づかないところでカイトを傷つけるようなことを思っていたら、それも言い出すかもしれない。
「なぁ…オレ、心、まだ大丈夫なのかな…」
遊馬は、思わず口走っていた。カイトは、体の膿、と言ったが、心もすでに膿んでいるのではないか。そんな状態で、本当に心はまだ腐っていないと言い切れるのだろうか。
「……」
遊馬が不安に思うのも無理はない、とカイトは思ったが、カイトの考えは遊馬と必ずしも一致するものではなかった。遊馬自身はカイトを始めとする他人を傷つけるようなことを言い出すことを恐れていたが、もしそれで済むのならば逆に話は早いのだ。一時的には激しいことを言うだろうが、膿が吐き出されれば心が復調に向かうのも早いだろう。
だが、遊馬の場合は、そうではないのではないかとカイトは思っていた。遊馬は、その、他人に向けるべき咎まですべて自分に向けているのではないか。その場合、吐き出した膿はまた自分へ向けて帰っていき、根を張り続けることになる。それを完全に解消するのは、遊馬が恐れていることよりもずっと難しいことなのではないだろうか。
「弱ってはいるだろう。だが折れてはいない。大丈夫だ」
だが、どのみち、難しいから諦める、というわけにはいかないのもまた事実なのだ。
アストラルに頼まれたからというだけではない――他ならぬカイト自身が、遊馬を愛しているからだ。遊馬に告げた言葉に嘘偽りはない。遊馬をこれ以上一人で苦しがらせ続けることは、カイト自身がどうしても耐えられない。
「お前には、乗り越える強さがある。…お前が自分を信じられないなら、オレがお前を信じてやる」
そんな不安要素など欠片も匂わせない、穏やかだが揺るがない調子で、カイトははっきりとそう宣言した。
「……カイト」
発作で大泣きして涙の余韻が残る目に、その言葉は反則だ。遊馬は、再びカイトに抱きついてしまった。カイトは、どうしてこんなに完璧なのだろう。どうしていつも、遊馬が必要としているものを間違えないのだろう。
「遊馬、お前にこれを渡しておく」
それから、カイトはそう言って、一枚のカードを遊馬に手渡した。遊馬は何気なくその絵柄を覗き込んで、伸ばしかけた手を慌てて引いた。
「こ、これ…超銀河眼じゃねえか…受け取れねえよこんなの」
超銀河眼の光子龍。ナンバーズがなくなった今、このカードがカイトのエースモンスターだ。そして、これはハルトが命の危機にあってもカイトを助けたいという想いで生み出した、何よりも大切な兄弟のカードでもあるはずだ。
「預けておくだけだ。デュエルをする時には返してもらう」
カイトは苦笑しながらそう言った。そして、このカードがカイトのエースであり、カイトの魂に最も近しいカードであるからこそ、できることがあるのだと言う。
「これをエクストラデッキに入れておけ。そして発作が起こったら、エクストラデッキに触れろ。そうすれば超銀河眼がオレにそれを知らせる。可能な限り駆けつけてやろう」
日常、デュエル以外ではエクストラデッキに触らなければならないことはほとんどなく、発作が起こっても簡単にできる動作でもある。SOSとしてうってつけではあった。そして、それだけ――遊馬がエクストラデッキに触れるだけでカイトにその信号を伝えることができるのは、確かに、銀河眼と超銀河眼くらいのものだろう。
「だからって…超銀河眼じゃなくっても」
「……」
遊馬は言い返そうとしたが、カイトは黙ったまま、超銀河眼を差し出し続けるだけだった。
「……」
それは、SOSとしての機能以上に、カイトが遊馬に命を預けてもいいということの表れだったのだ。
絶対的な信頼と愛情の、表れだったのだ。
*****
そうしてカイトが遊馬の行動に気を配るようになり、遊馬がカイトに頼るようになったところで、発作の頻度自体は大きく変動しなかった。ただ、どんな場面で起こっても、カイトがその異変を察知して駆けつけてくれるという安心感が得られたことは、遊馬の心に大きな変化をもたらした。
学校のど真ん中で起こらない限り、発作が起こる度にカイトは必ず、しかも見えないように、一人で助けに現れた。オービタルさえ連れてきていないのにどうやって移動しているのか、だがそんなことは問題にならないのだろうと感じさせてしまう何かがカイトにはある。
愛しているという言葉とともに超銀河眼さえ預けるほどの信頼を示したカイトに、遊馬もまた全幅の信頼を寄せるようになったのは自然のことだった。そして、心の距離ばかりでなく、体の距離も近くなった――遊馬の発作を収束させるにはカイトが遊馬に直接触れる必要があるのだから、それも当然のことである。
だが、投げ込まれた愛しているという言葉、カイトが遊馬を見る目の色の中に、遊馬は徐々に、それまでとは違う意味でその肌の温度を意識してしまうようになった。カイトの愛情に、少しずつ、人肌を――性を求めてしまうようになったのだ。
***********
小鳥と鉄男との帰り道に寒気の発作を起こし、カイトの腕に飛び込んだ遊馬は、発作が収まってもしばらくそのままカイトの腕の中にいようとした。
「帰れるか」
カイトが遊馬を抱きとめたまま、声をかける。遊馬は、カイトの胸に押しつけていた頭を少しだけ離して、カイトの腕の中に声を吹き込んだ。
「……今日、オレ、カイトと一緒がいいな…」
「……」
特に発作を起こした日の夜は、不安になるのか、遊馬はカイトの側を離れたがらないことが多かった。突然の外泊が多いことを、遊馬の家族は不審がっていないだろうかと思ったこともあったが、遊馬の父、一馬にも似たような傾向があったらしく、何の問題ともとられていないようだった。
「……いいだろう」
カイトとて、遊馬の目つきが変わってきたことに気づかないほど鈍感ではなかった。しかも、それを引き起こしてしまった原因はほぼカイト自身にあるようなものだ。ただ、それにどう対応すべきかは、カイトは決めきれていなかった。
最も困ったことには、カイトの側にも、その感情は――性を伴いかねない愛情は、厳然としてあるのだった。
遊馬が気付くよりも、恐らくは前から。
とは言え、遊馬がカイトの隣で眠る時は発作の後が多い。あの症状は体力を使うらしく、直前まではカイトの体にすり寄ろうとする仕草を見せる遊馬も、ほぼ直線的に眠りに落ちてしまうことがほとんどだった。
そのため、その夜も例外に漏れず、遊馬はカイトに寄り添ったまますぐに深い眠りに落ちた。カイトも、その温かい体温につられて、徐々に意識がまどろんでいく。
異変が――そして決定的な転機となる出来事が起こったのは、深夜になってからだった。
「カイトが…!カイトが死んじまう!!」
突然、ぐっすり眠っていたはずの遊馬が、がばっと上半身を起こして、そんなことを叫び出した。
「遊馬!?」
「死んじゃう…っェ、は、あッ…!」
かと思うと、そのまま呼吸の自由を失ったのだ。
「遊馬!」
頻度の少ない、過呼吸の方の発作だった。発作を起こした同じ日にもう一度別の発作が起こるのは初めてのことだったかもしれない。酸素を摂取しすぎて窒息し、暴れ回る遊馬を、カイトは咄嗟に馬乗りになって抑えつけた。
「オレはここにいる!」
カイトが遊馬の顔を見据えると、遊馬は生理的な涙に濡れる目にカイトを映した。
「ひゅッ、ぜぇ…っ、はッ、あ、か、い」
遊馬は、口の端から涎を溢れさせながら、それでもカイトの姿を認めて名を呼ぼうとしていた。
「……」
過呼吸を収める最も一般的な方法は、自分の吐息を吸って酸素分圧を下げることだ。そのための紙袋も、ベッドサイドに備えてあった。
「ん、う」
だが、カイトは敢えてそれを、自らのキスで置き換えた。
『カイトが死んじまう!』
遊馬が叫んだことからすれば、この発作の発端はカイトを失った時の記憶だ。それを一番否定できるのはこの方法だと、その時ばかりは自制を失って、カイトは遊馬の涎を零す唇を吸い、荒々しい息を食み、自らの吐息を遊馬に送り込んだ。自分を失った記憶を傷としてしまう遊馬への愛が、溢れてしまった。
「ふ、あ……んぅ」
そして――二度のキスでその息が正常に戻ったことが分かっていながら、カイトは余分にもう一度、遊馬の唇に唇を重ねてしまった。
「…ここに、いるぞ」
「………」
唇を離した時、遊馬は肩で息をしていたが、発作は収束したようだった。薄暗い中、涙に濡れた大きな赤い目が、カイトの顔を逃すまいと見つめている。
「カイ、ト…」
遊馬は手を伸ばし、カイトの頬に触れた。落ち着いてから改めて目に映し、触って、実体を確認する。
カイトがその手に手を添えてやると、遊馬はようやく安心したのか、顔をくしゃくしゃに歪めた。
「……、」
そして、抱きしめるカイトの胸に縋りつくように、声を殺してぼろぼろと泣いたのだった。
*****
そのまままた泥のように眠りに落ちた遊馬を見届けて、カイト自身も浅い眠りを経た後、不意に目を覚ましたのは、4時――空が青みがかる前の、未明の時刻だった。
腕の中にいる遊馬の様子を確認しようとして目を落とした時――その赤い双眸がじっと自分を見上げているのに気がついて、カイトは一瞬動きを止めた。薄暗いままの部屋の中で、遊馬の赤い目だけが弱い光を反射して、艶めいて見える。
「起きていたのか」
「……うん。ついさっきな」
実体を伴わない声で囁き合ったあと、遊馬は目をカイトから外すように半分伏せた。
「何か、すぐ起きちまってさ」
遊馬は、らしくない苦笑いを浮かべてそう言った。どうやら、発作で体は疲れているものの、神経は興奮するため、眠りが浅いようだ。
「もう大丈夫なのか」
「うん。たぶんな」
カイトが一応確認すると、遊馬は頷いた。確かにカイトから見ても、発作の兆候は見られない。寝つけないのも病的なことではないらしい。
問題がないならそれに越したことはない。カイトは遊馬の肩に手を置き直して、再び目を閉じた。体は疲れているはずなのだから、横になっていればそのうちまた眠りに就けるだろう。
「……カイト」
そう思っていたのに、遊馬はカイトの腕の中でもぞりと身じろいで、掠れた声を出した。
「……」
カイトは薄く目を開ける。――思った通り、遊馬は上目遣いにカイトを見上げている。明らかにそういう意図の期待を込めた目で、カイトを見ている。首を伸ばして、カイトに近寄ろうとしている。
「……遊馬、止せ」
カイトは思わず口走ったが、それが自分の本心なのかどうかも分からなかった。遊馬はそれを見抜いてか否か、カイトの言葉には従わない。そろりとカイトの懐に手を這わせながら、唇を半開きにして目を細めた。
遊馬の吐息が唇にかかって、カイトは観念してその頬に手を寄せた。頬から顎へ指を滑らせながら、その唇に吸いつく。発作で必要に迫られてではなく、遊馬の色香に負けて、カイトは遊馬の唇を味わった。
「ん…ふあ…」
キスの合間に遊馬は熱い吐息を零し、カイトの首に手を回した。少しずつ深くなるキスに応えながら、遊馬は体全体をカイトに委ねようとする。
「遊馬」
性急にその先を欲しがる遊馬に、カイトはその肩を掴んでそれを止めた。それが正しいかどうか見極めることができていないのに――世間的に言えば間違いなく正しくはなく、カイトは犯罪者になってしまう――遊馬の唇は甘すぎて、流されてしまいそうになる。
遊馬は、熱に浮かされたような目でカイトの目を見ていた。
「……オレのこと…好きって…あいしてるって、言ってたよな…?」
「……」
遊馬の言葉に、カイトは返す言葉がなかった。その通りだ。カイトの都合だけを考えるのならば、犯罪かどうかということは残るにせよ、カイトは遊馬を抱いてしまいたいと思うほどに愛している。それを、今は遊馬の側も望んでいるのだ。カイトが守ろうとしている境界線は、風前の灯だった。
「……後戻りできなくなるぞ」
「うん」
「…それに、痛いぞ」
「いいぜ」
カイトがいちいち警告することに自分への配慮を感じて、遊馬は思わず花のような笑顔を浮かべてしまう。言葉を失うカイトの頬に、遊馬はそっと手を伸ばした。
「カイトと…あったかくなりてぇんだよ…」
「……」
遊馬のその笑みは、後ろ向きには見えなかった。これだけの発作に苦しんでいても、遊馬は前を見ようとしている――その中に、カイトと行為を交わしたいということも含まれているのだということを伝えようとしているように見えた。
どのみち、カイトは遊馬にキスをしてしまったのだ。ここまで来てしまえば、その一線を越えないことに拘る理由はほとんどない。それこそ犯罪かどうか、あるいは物理的な痛みということくらいしか残っていなかった。カイトを求める遊馬の心、あるいはその逆の自分の心と、それらの事情を比較して、カイトは前者を選ぶ覚悟を決めた。
「……分かった」
カイトは、短くそう言って遊馬を自らの下に組み敷いた。息を呑む遊馬の細い頸に、顔を埋める。
「……あ、」
その首筋に覚悟の証の歯を立てれば、遊馬が浮かされたような声を上げる。健康的な肌に、夜中の発作の痕跡だろう、汗の匂いが染みついている。その塩味すら味わうように、カイトは唇で遊馬の肌を愛でた。
遊馬は、はぁっと一つ震えた息を唇から漏らした。それから、意味のある言葉をその息に乗せた。
「しあわせ…だなぁ」
その言葉は、カイトの頭を横から鋼鉄のように殴りつけた。
あまりの衝撃に、目が眩む。遊馬が、カイトの手に組み敷かれて肌をなぞられることを、しあわせだと。それを、この世のどんな歓喜より至上なのだと言うのだ。
愛おしいにも、程がある。
「遊馬」
「えっ…?っあ!」
それ以上、カイトは自制することができなかった。
遊馬が望む通りに、あるいはそれ以上に、心と情欲の赴くままに遊馬の体を味わいにかかってしまった。
***********
体の関係が付随したことで、遊馬の症状は特に大きな変化を見せなかった。劇的な悪化も、また改善も、見られなかった。相変わらず不定期に発作は起こり、その度にカイトは遊馬のもとへ駆けつける。
遊馬がねだり、それに折れる形で彼に手を出してしまったカイトであったが、それによって遊馬を溺れさせたり、あるいは自身が溺れたりすることはなかった。遊馬が一人になりたい時とカイトを必要としている時を見誤らなかったし、他の仲間のところに行きたい時には好きにさせていた。自分に寄りかからせ続けるだけでは、逆にカイトがいないと何もできない遊馬になってしまうことをカイトは知っていた。一方で、遊馬が抱かれたいと言う時には抱いてやったし、カイトの側から欲することもあった。
情事の際、遊馬は、何かを貪るように快楽に夢中になり、技術的な上達も、驚くほど早かった。そして無意識のうちにだろうが、カイトまで引きずり込もうとした。その技術でもって、あるいは表情で、カイトの性に訴えかけ、搾り取ろうとする。カイトに残る理性の箍を、完全に外させようとする。
「……、」
カイトにも遊馬への慕わしさがある。油断すれば、遊馬の思うまま、のめり込んでしまいそうになる。
だが、カイトは一定のラインを死守しなければならなかった。
遊馬がこれほどまでに性を欲しがるのは、それも心の傷を埋めようとする反応の一つだ。発作、というほど望ましくないものではないにしても、カイトが共倒れになるわけにはいかないものだった。
「かいと、あれ、言ってぇ」
遊馬が、カイトの上で体を捩りながら、熱に蕩けて甘えた声でねだる。毎回必ずというほどではないが、遊馬はカイトのその言葉を欲しがることがあった。
「…愛している」
「はぁっ…!おれも…」
カイトがうっすらと微笑みを浮かべてそれを告げてやると、遊馬は体をぶるりと震わせて歓喜した。
だが、この愛しているという言葉が免罪符になってはならないのだ。カイトは、何とか踏み止まって遊馬の逃げ道となれる自分を保ち続けなければならない。どんな時も遊馬にとって最も望ましい選択肢を提示してやれるカイトであり続けなければならない。少なくとも、遊馬が発作に苦しまなくなるようになるまでは。
「……」
けれど、それを本当に正しく見極めることが、できているのだろうか。カイトは時折不安に陥ることがあった。
カイトは、その心の強さはともかく、何の特別な力も持たないただの人間だ。
しかも、今のカイトは遊馬に限りなく心酔していて、目が曇っているかもしれない。
仮に、遊馬が寒い寒いと震えているのを、黙って見過ごすことが一番いいと分かったとして、そんなことが自分にできるのだろうか。
遊馬にとっての最も望ましいこととカイト自身の欲求を、混同してはいないだろうかと。
***********
「カイト、オレ、何かちょっとよくなってきたような気がするぜ」
ある日遊馬は、特に用もなくカイトのもとを訪れて――恐らく二人は恋仲と呼ばれる関係になったと言えるのだから、特別おかしなことでもないだろう――、開口一番にそんなことを言った。
「…そうか」
カイトは、咄嗟にそう答えることしかできなかった。言われてみれば確かに、最近、徐々にではあるが、発作の頻度が減っているようにも思える。
(オレが不安に思ったタイミングで、こんなことを言ってくるとはな…)
本来の遊馬に近い、眩しい笑顔を浮かべる彼に、カイトは思わず微苦笑してしまった。
遊馬の発作が過呼吸――息ができなくなることと、寒さに晒されることであること。それに何の意味があるのかなど、深く考えるまでもなかった。
それらは、カイトが月で息絶えた時の身体的苦痛と同じなのだ。
遊馬の魂は、おそらく、それを肩代わりして解消させようとしていたのだ。自分の信じた道で、デュエルで、何も成し遂げることができなかった。それならせめて、仲間が味わった死の苦しみを自分の体で背負いたい。そう願ってしまう、遊馬の行き場のない心の表れだったのだ。
カイトが寄り添うことで、あるいは体の関係まで持つ仲になったことで、遊馬はようやく、これ以上カイトの苦しみを負う必要はないのだと思い始めたのかもしれない。
(だとしたら…そろそろ、次の段階だ)
カイトは、無邪気に抱きついてくる遊馬を受け止めながら、そう考えた。
アストラルと約束した、そしてカイトが真に成し遂げてやりたいのは、遊馬の心の傷を癒すことばかりではない。
遊馬が、折れてしまった自分の道を――新しい自分の信じる道を見つけることを助けることだ。
あの戦いでの心の傷がもたらしていた発作が重すぎて、思いがけず、カイトと恋人として手を取り合うことにまでなった遊馬。そのことで、次に遊馬が見つける道は、一体どういう方向へ向かうのだろうか。
(…分からないな、今はまだ)
さすがに、まだ体の発作が完全に消えたわけでもないのに、その具体的な形を見出そうとするのは早計だ。
だが――カイトは考えた。そのことで状況が悪化する可能性があったのと同じように、好転する可能性もまた、きっとあるのだ。カイトとの恋を覚えたことで、今までになかった良い方向を見出すことも、遊馬はきっとできる。
それを共に探して、見据えてやることこそ、劣情に勝てなかった自分の使命なのだ。
「遊馬」
カイトは、腕の中の遊馬に囁くように声をかけた。
「ん?」
「超銀河眼を返せ」
遊馬は、それを聞いて――半ば予想通り――ただでさえ大きな目を限界まで見開いた。
「えっ…ま、まだ治まりきったわけじゃないぜ」
「そうじゃない」
そのまま青白くさえなりかねない勢いの遊馬に、カイトは苦笑したまま言った。
「デュエルだ」
それを聞いた遊馬が、目を円くしたままなばかりでなく、しばらく硬直したように動かないので、カイトは首を傾げた。元々遊馬の行動原理はデュエルを楽しむ心で、それはこの一連のヌメロンコードの件とは関係なく、アストラルとのラストデュエルによって取り戻されたはずだ。何をそんなに驚くのか分からなかった。
「…どうした」
思わずカイトが尋ねると、遊馬はようやく「お、おう」などと言って、身動きを取り戻した。そして、
「初めてだな、カイトからデュエルしようっつってくれたの」
と言ったのだった。
それから遊馬は、目を円くするカイトを他所に、あ、初めて会った時はカイトからだったっけ、などと言っていた。確かに、そうだったかもしれない。ナンバーズを狙っていた頃、獲物として出会った最初の一度以外、敵であろうと味方になってからであろうと、二人のデュエルは常に遊馬の側からカイトにデュエルを持ちかけていた。カイトはそれに応えていただけだった。
カイトは眉を寄せて笑ってしまった。遊馬のために肩肘張っているつもりが、そんな簡単なことすらまだできていなかったとは。カイト自身、まだまだ道は長いらしい。
「……そうだったな。待たせた」
「へへっ」
カイトがそう認めて遊馬の肩をぽんと叩けば、遊馬は喜ばしそうに笑ってエクストラデッキを開け、超銀河眼の光子龍を探し始めた。
「はいっ」
そして、その黒と赤に彩られたカードを差し出してくるその笑顔を見ながら、カイトは思う。
お前はまだ若い。そんな道を焦って見つける必要はない。
それが見つかるまでどれほどの長い時間がかかろうと、オレは必ずそばにいてやろう。
そして、その道を、手を取り合って歩いていってやろう。
「今日こそ勝ちてえな〜」
「ふん、そう甘くはないぞ」
「ちぇっ」
今度こそ、志半ばで倒れたりせずに。
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カイ遊初挑戦作でした。長くなった