星空散歩
夢を見ることが多くなった。
手を伸ばせば届きそうなほどに、星が明るく、眩しい。まるで、かつて父に連れられた山の上で見た、宝石を敷き詰めたような星空を、見ているというよりはその真ん中にいるかのようだった。ハートランドの夜は明るく、星は掻き消されているのに、どうしてこんな空が見えるのだろう。
『遊馬』
そして、必ず声がする。どの方角からか分からないけれど、慕わしい、自分の名を呼ぶ声が響く。
その、どこまでも優しく、柔らかく、けれども強く自身を肯定するような声を聴く度に、遊馬は、泣きながら目を覚ますのだった。
***********
「カイトが帰ってきたって!?」
「遊馬!」
ヌメロンコードによって全てが取り戻され、カイトが息を吹き返すと、遊馬は報せを受けてすぐにハートランドの中心へ駆けつけた。
「どこだよ!?カイトはどこに」
「遊馬、落ち着いて!こっち…」
遊馬を――それまでのようにアストラルを連れておらず、一人きりで駆け込んできて、なおも急き続ける遊馬を、ハルトはなだめながら案内しようとしたが、途中で言葉を切って目を円くした。
遊馬がそのことに気付いて振り向いたりする前に、白くて長い、そして存外温かい手が遊馬の後ろからそろりと伸び、その紅玉の両目を覆う。
「やっと来たのか、グズめ」
「か」
ダメージに消耗していた時と同じように湿って優しい、だがそれより凛とした張りを取り戻したカイトの声音に、遊馬は瞬時、呼吸の仕方を忘れていた。
遊馬がカイトへの憧れを恋心に変化させてしまったのは、まだバリアンとの戦いが佳境に入る前のことだった。何が正しく、何が過ちかを熟知している目も、凄まじいデュエルの腕も、そしてその強さを過ちと知りながらも愛するものを取り戻すためにすべて捧げると決意の固さも、心をすべて奪われるほどに男として強く、同時に哀しいほど美しかった。何度敵だと撥ねつけようと自分を救うことを諦めず、ついにそれを実現してしまった遊馬に、カイトの心もまたこじ開けられ、照らされ、降伏してしまった。
遊馬がカイトにその恋心を告げた時、当時から遊馬に人生を捧げることも厭わないほどの愛情を傾けていたカイトが、それを悪く思うはずもなかった。その時は来るべき戦いに備えることを優先したものの、二人は戦いを越えた後には心を通わせる約束をした。
だが、それから状況は大きく変わってしまった。――ベクターが真月零としてナンバーズクラブ内部に入り込んできて、長きに渡り状況を荒らし続けた。カイトと同等かそれ以上に遊馬への愛が深いはずだったシャークは、バリアンの王・ナッシュとなり、遊馬の前に全力で立ちはだかった。仲間に優劣をつけることがほとんどない遊馬が、紛うことなく一番大切だ、と言い切った存在だったアストラルは、それらをすべて解決した後、ひとり異世界へと帰ってしまった。
そして、恋人としての将来を誓い合っていたはずのカイトは、傷だらけの体を抱えて月で戦い、絶命した。結果論から言えばバリアンの存在だったシャーク、またシャイニングドローの力を秘めていた遊馬自身と違って、カイトは文字通りただの人間だった。デュエルが強いということ以外に何の特別な力も持たず、月の真空や絶対零度に耐えられる体でもなかった。にも関わらず、ドン・サウザンドとの決戦時には魂だけで駆けつけて遊馬に力を添え続けた。
こうなれば、もはや恋の成就が成るか否かなどほとんど問題ではなかった。自力では取り戻せなかったカイトが、アストラルによってこの世に帰ってきた、それだけで遊馬の心は張り裂けそうだった。道中、走っている間も、涙が溢れないようにするのが精一杯だった。
「……カイト…カイトなんだな…?」
遊馬は、あまりのことに止まっていた呼吸を取り戻した後も、信じられない類の言葉を繰り返した。見ていたハルトやオービタルも、完全に言葉を失って目を円くしていた――カイトが遊馬に成す行動としては、それは二人の予想の範疇を随分と越えていたのだった。カイトだけが、微笑んで遊馬を見下ろしていた。
「他に誰かに見えるか」
カイトはそう言って、ようやく遊馬の目から手を外す。
遊馬は振り返ってカイトを見上げた。頭半分の身長差。彩度の低い碧眼。見間違えようもなく、遊馬が憧れ焦がれ、ついに救い上げた、カイトだった。遊馬を信じ抜き、遊馬のために暗躍し、果ては命まで投げ出して戦い、死んだ後にすら駆けつけてきてくれた、カイトその人だった。
「帰ってきて…くれたんだな…」
一度は完膚なきまでに失ってしまったと思った相手をこうして目の前にしてしまえば、どうしてヌメロンコードを使うことに疑問を持っていたのか分からないほど遊馬の心は溢れ出る。その声は裏返り、肩は震えて視線は床へ伏せられていた。噛み締めている唇も、また震えている。
カイトは、黙ったままその涙を抑えるために懸命な、小さな体を、抱きしめた。
「……」
その命が失われていくのを画面越しに見ていることしかできなかった体が、目の前にある。血の通った肌の温度が、ダイレクトに伝わる。普通に生きていた頃でさえ、ほとんど触れ合ったことはなかったその温度が。
「……、…」
遊馬が守ろうとしていた最後の堰は、あっけなく決壊した。カイトにしがみつくように腕を回し返し、声を殺して号泣する。一度あふれ出したその想いは到底止まる気配を見せなかったが、カイトは何も言わずに受け止め続けていた。
その温度が、もう泣いていいと言っていたのだ。
泣くな、負けるなと言っていたカイトが、もう泣いていいと言ってくれたのだ。
「約束は守る」
「え?」
そうして静かに大泣きした遊馬が落ち着きを取り戻した後、カイトはそのはるか昔に告げられた好意に対しての答えとして、カイトはハルトとオービタルの前で遊馬との交際を正式に始めることを宣言した。遊馬は無論真っ赤になり、ハルトとオービタルも驚愕に固まったものの、すぐさまその場は狂喜乱舞のお祭り騒ぎになったことは言うまでもない。
そのため、天城家にとって、遊馬が用もなくカイトを訪れることは、それ以来何の疑問もないことになった。ハルトは誰より遊馬を歓迎していたし、オービタルはややぶつくさと言っていたものの、結局のところは遊馬を拒絶する理由などどこにも見当たらなかったのだ。
屋外に出かける時に接触があることはなかったが、室内にいる時には、少しずつ、遊馬とカイトの距離はそれまでより近くなった。遊馬はそう簡単に関係を劇的に変化させたがる性質でもなかったが、それでも徐々に、恋人らしい接触は増えた。飛びつくように抱きついたり、手を絡ませ合ったり、寄りかかり合ったりしているところは、ハルトも目撃することがあった。二人きりになれば、より性的な意味合いを持った接触もカイトは許した。一見、交際したての初々しさを残した、仲睦まじいカップルの姿だった。疑いなど一片もない幸せを形にしたような、平和で優しい光景だった。
「兄さん、遊馬が兄さんと一緒で幸せそうで、よかったねぇ」
「……」
だが、その最も近しい距離を手にしたカイト自身だけは、心からそう思うことができなかった。
その距離にいるからこそ、気がつくことがあった。遊馬は時折、軋むような空気を纏うのだ。
邪悪な要素、あるいはストレスを溜め込みすぎて折れそうになっているとか、そういう様子はない。だが、わずかに、雰囲気が途切れる。突然何かに押されてバランスを崩すような、断絶があるのだった。
「……そうだな」
「兄さん?どうかしたの」
「いや、何でもない」
それが何に起因するのか、カイトには分かっていた。分かりきったことだった。アストラルがいないことだ。
本来遊馬に最も近い距離を取ることができるのは――身体どころか魂までをも重ねることができるのは、アストラルだけだった。その重大な欠落が、そう簡単に無かったことになるはずはない。
(オレ以外に気づく奴が出てこないという時点で、よくやっている方だろう)
それを咎める気など、カイトにはまるでなかった。もう少し表に出してもいいのではないかと思うほどだった。もし遊馬がこうしてカイトに夢中になっている様子を見せるのが、その欠落を埋めるためだったのだとしても、それはそれで構わないとカイトは思っていた。遊馬の中でアストラルがどれだけ重い存在であったかは、理解しているつもりだった。
*****
また、夢を見ていた。
その日は昼間の明るい、どこまでも続く水色に薄い雲が遊ぶ空だった。
その水色は、よく知っている色のように思えた。青空だから、というわけではない。手が届かない空などよりもっと近くて、親しいものの色だった。そう、親しい。何よりも誰よりも大切だった色。
赤い前髪を持ち、うるさくて頭の悪い遊馬自身とは、何もかも正反対だったものの色だ。
あぁ、今日は呼ばれないなぁ。このままどこまでも行けそうな気がする、と遊馬は思った。晴れているからか、風も心地が良かった。このまま上昇し続けたら、どこまで行けるのだろう。眩しい水色世界に遊馬は目を細めて、その優しい風に身を任せてしまおうと思った。
「遊馬!」
そこで、騙し討ちのように斜め上から放り込まれたその声に、遊馬はぎょっとして振り返った。
「え!?」
その視線の先にいたのは――遊馬の座るソファの後ろから、上半身を半ば被せるようにその手元を覗き込んでいたカイトだった。遊馬は、部屋を訪れた時には少し手が離せないでいたカイトを待って、座ってデッキ調整をしていた――その際にどうも眠りこけてしまっていたのだから、声をかけてきたのがカイトなのは当然の現象だった。
「……何だ」
あまりにも驚愕の深い表情を見せる遊馬に、カイトは怪訝そうに眉を寄せる。
「い…いや……なんだろ…はは…」
遊馬は、その至近距離の視線から逃げるように顔を戻しながら、未だ衝撃の余韻を消せずに暴れる胸を押さえていた。
(アストラル…かと思った…)
そう――声質が酷似している、というわけでもないのだが、彼らの話す語調が同じだからか、カイトの声がアストラルと重なることは時折あった。そしてその度に、遊馬は肝を冷やすことになった。
(あと……今の、ゆめ)
よく見る夢の、少し違う形だった。いつも、何かに呼ばれて目を覚ますのが、今日は現実のカイトの声に重なって、明確に呼ばれたと感じた声はなかった。なかったのだが。
(いつも、オレを呼ぶ声……あれ、アストラルだったのか…?)
今、カイトの声をアストラルだと誤認したということは、いつも自分を呼ぶ声はアストラルなのではないか。今まで特に誰の声だと認識したことはなかったが、遊馬はその時初めて、はっきりとその可能性を描いた。
もし、それがアストラルだとすれば納得なのだ。スケールが壮大で、見ていて不安になってもおかしくないような、しかも目覚めればいつも泣いているという夢なのに、遊馬はそれを見ることが嫌いではなかった。いくら望ましく別れたとは言え、遊馬は今でも、アストラルに会いたい心が溢れそうなほどにある。それを追いかけての夢なのならば、遊馬がそれを望むのは当然なのかもしれない。
(……でも、そっか、アストラルか…)
遊馬は、微妙な心地になった。今はカイトがすぐ隣に居て、惜しみなく愛情を傾けてくれている。それだけでなく、アストラルが取り戻してくれたこの世界の中で、楽しく生きていけていると、少なくとも自分では思っている。
それなのに、未だに遊馬はこんな夢を見ている。楽しく過ごしていると口では言いながら、アストラルをあきらめきれていない、そのことにも少し自己嫌悪の気分が生じる。
そして――夢は夢でしかないのだ。
夢を見ているだけでは、アストラルに会うことは絶対にできないのだ。
カイトと唇を重ねるようになって、遊馬は気づいたことがあった。
声が似ているだけではない。カイトの青くて深い瞳は、アストラルを思い起こさせるのだった。アストラル自身の目の色とは全く異なるし、アストラル世界の色とも決して同じではないのに、カイトと唇を合わせようとする瞬間伏せられるその色をどうしても追いかけてしまう。
「カイト…」
それに気づく度、遊馬は自己嫌悪に陥り、同時にカイトにそれを悟られるのが怖くなる。遊馬は必死に、熱を込めて、カイトの名前を呼んでしまった。
「……」
だが、そうやって呼べば、カイトは律儀な男だから、唇を離せば必ず応えて薄く瞳を開く。
アストラル世界やギャラクシーアイズのそれより、少し沈んだ彩度が柔らかく濡れた光を反射する。カイアナイト、というパワーストーンがあるのを知って、名前に惹かれてそれをこっそり買った遊馬は、それが偶然熱処理の具合か、カイトの目そのものに思えるようなものだったから驚いた。それ以来遊馬はそれを肌身離せない。今もポケットに入っている。
きっと、カオスを受け入れてバリアン世界と再統合した今のアストラル世界はそんな色をしているのだろう、と思わせるような色だった。だからなのだろうか。その色が慕わしくて仕方がないのは。
けれど、遊馬がカイトのことを好きになったのはアストラルに似ていると思ったからでは決してない。カイト自身が、強くて美しかったからだ。まして、身代わりだなんて思ったことは一度もないはずだった。
「……どうかしたか?」
「……」
それをカイトに言えるはずもなかった。カイトってアストラルに似てるところあるよな、と軽い気持ちで言うことさえできなかった。そうではない――代わりだと思ったことはないのだと、正しく伝えることができるのかどうか、遊馬には自信がなかったからだ。
「なんでもねえよ」
「そうか」
知ってか知らずか、カイトも深追いはしなかった。遊馬はそれを心の底からありがたいと思っていた。それは、カイトが弱さや脆さを含めて遊馬を尊重していることの表れのようだった。そういう言葉に出さない気遣いをさらりとしてしまうところがカイトのスマートなところであったし、その尊重があるからこそ、遊馬はカイトの隣にいることで自身の存在を根底から肯定されていると感じることができるのだった。
**********
バリアン世界と再統合したばかりで不安定な新生アストラル世界は、空間の歪みを生むことが多かった。今日も空の裂け目から、人間世界の夜空が見えている。アストラル世界の夜空と人間世界の夜空は、少しだけ異なる。その両方を目にしたことのあるアストラルは、人間世界の夜空が見えるとどうしても懐かしい心に支配される。
その裂け目へと、アストラルは慕わしさに勝てずに滑り寄った。当然、その先へ――人間世界へ行くことはできない。物理的には可能かもしれないが許されていない。だが、空間が裂けているのも一時的なことだ。少し近く覗き見ることくらいは咎められないだろう。
「!」
その時、その裂け目の奥に、星にしては強すぎる赤い光が見えた。それは、時折左右にふらつきながらも、間違いなくアストラル世界の方へ近寄ってくる。
「アストラル…!?」
見間違えるはずもない。それは、ナンバーズを取り戻しても失われたままのアストラルの紛れもない半身。心の底から愛しくて仕方がない魂の色だった。
「遊馬か…!」
「アストラルぅ!」
同じように遠くからアストラルの青い光を認めていたのであろう遊馬は、次元の狭間でアストラルに飛びついた。遊馬は体から魂だけが離脱した状態ではあったが、その見た目はただの光の塊ではなくきちんと遊馬の姿をとっていた。霊体同士の身であるため、直接触れ合うことができる。
「アストラルだぁ…!これ、これも夢なのか?」
遊馬は、今にも泣きそうな表情になりながら、アストラルに頬を擦る。アストラルは、その色違いの目を伏せた。遊馬とアストラルが直接触れ合うことができた機会は多くないが、その懐かしさ、そして慕わしさはアストラルも泣きたくなるほどだった。
「キミからしたら夢のような見心地なのだろうな。だけど私には夢じゃないよ」
「そっか…」
アストラルの言葉に、遊馬は理解したのかどうか定かではない返事をする。だがそれが重要ではないのはアストラルも同じことだった。互いの感触、五感すべてで感じる相手の魂の質感を、逃すまいと必死だったのだ。
アストラルともう一度会うことができたら、話したいと思っていたことがたくさんあるはずだった。だが、いざこうして目の前にしてみると、そうやって話す時間すら惜しくなるほど恋しかったのだと遊馬は知ることになった。
(あぁでも、それでも言っとかなきゃいけねえことはあるはずなんだけどな…)
遊馬は蕩けた頭で考える。失われた仲間や父母をこの世に返してくれたのはアストラルだった。アストラルがいなくなってから学校で、デュエルで、どんなことがあったかを伝えなければいけないはずだった。そう、生き返ったカイトと付き合うことになったということも。カイトとのことは、戦いの間は保留になった、というところまでしかアストラルは知らないはずだ。
だが――その事実より、遊馬の頭にぽっかりと閃いたことがあった。
「あのな、アストラル」
アストラルと抱きしめ合ったまま遊馬が顔を上げれば、アストラルと目が合う。こうして見ていれば、青の要素はどこにもない瞳。
「カイトって、お前に似てるんだぜ」
カイトには上手く伝えられないと思って言えないことだったのに、アストラルに対してはすんなりと言葉が出てくることに遊馬は驚いた。アストラルは、その色違いの目を少し円くして、ナンバーズの神には似つかわしくない、けれど遊馬はよく見慣れた、あどけない表情を見せた。
「そうか」
アストラルの短い返事を聞いて、遊馬は満面の笑みを――アストラルが好きだと言ったその笑顔を咲かせる。
「ほら。カイトも多分同じこと言ったら、そうかって言う」
「……そうかもしれないな」
悪戯でも成功したかのように、にひひと笑い声を上げる遊馬に、アストラルも口角を上げた。
遊馬とカイトこそ似ていると思っていたアストラルにとって、それは少し意外な言葉だった。
けれど、遊馬とアストラルは本質的に同じ魂だ。今は確固として互いの人格を身につけてはいるが、もとは一人だったもの。アストラルから見て遊馬とカイトが似ていると思ったのであれば、遊馬から見ればアストラルとカイトが似ていると見えるのは自然なことなのかもしれない。そしてどのみち、カイトは遊馬にもアストラルにも似ていて、そしてどちらとも同じものではないのだった。
「遊馬!」
その時、空の裂け目の向こうから、遊馬を呼ぶ声がした。
「カイト!?」
それはカイト――そして、魂だけでふらふらしていた遊馬と違って、彼は生身だった。オービタルで空を飛んで、次元の歪みを見つけ、駆けつけてきたのだ。
「どこへ行ったのかと思ったぞ…」
「ご、ごめんって…」
それまでべったりだったアストラルから離れ、駆けつけたカイトに小走りで寄る遊馬の後ろ姿を見て、アストラルはカイトならば安心して遊馬を任せることができるだろうと再確認していた。
「久しぶりだな、カイト」
声をかければ、カイトは目を上げたが、すぐにその目を眩しげに細くした。
「…アストラルか」
そして、それは眩しいからではないことが、その怪訝そうな声で明らかになった。
「…私が見えないか」
「ああ、見えない」
「えっ?」
落ち着いて言葉を交わす二人の間で、遊馬一人が目を白黒させていた。
生身のカイトの目には、霊体のアストラルは映らないのだ。同じ霊体でも、遊馬の魂は人間世界に属するものであるため、カイトの肉眼でも捉えることができる。だが、アストラルは存在する世界も異なる。この裂け目を踏み越え、アストラル世界に入ったなら、カイトもアストラルの姿を認めることができるだろう。だが、こんな何の備えもなくその一線を越えた場合、生身のカイトに一体何が起こるのか分からない。戻ることのできる保障もない。
次元の裂け目のどちらでもない空間にとどまることができるのは、体を持たないものの特性だ。遊馬は、どうすればアストラルに会うことができるのか、本能で知っていたのだろう。そのため、空間の裂け目を察知すれば、平気で魂を体から離脱させて夜空を彷徨っていたのだ。
「あーあ…アストラルとカイトが一緒なの、すげー嬉しいのになぁ」
遊馬は、アストラルとカイトを交互に見ながら、そう一人ごちた。カイトにアストラルが見えていないということは、このまま半永久的に共存することはできないということの表れであることを、遊馬は理解していたのだった。
「駄々を捏ねるな」
「だって」
カイトが、その我儘とも言える遊馬の子供らしい願望を軽くたしなめると、遊馬は膨れてカイトを見上げた。魂だけになっても、背の高さは変わらない。
「遊馬、私とカイトは一緒にはいれていないぞ」
「!」
そこで、反対側からアストラルが言ったことに、遊馬は驚いて振り返った。
声が似ていても、カイトの目の色がアストラルを思い起こさせても、同じ遊馬の我儘に対してアストラルとカイトの言うことはこんなにも違う。
「…へへ、やっぱ違うかもな」
「ふん、同じなものか」
そのことに、遊馬は少し安心したのだった。
アストラルとカイトはそれぞれ、違っているからこそどちらも愛おしいのだと、確認することができたのだった。
「あ、そうだあとな、これ見せたかったんだぜ」
遊馬は思い出したように、自分の胸ポケットを探った。そこにはカイアナイトが入れてあるはずだった。カイトの目の色にそっくりな、深い青をしている石。
「これ、今のアストラル世界と似たような色してんじゃ…」
そう言いながら遊馬はポケットを引っくり返したが、そこには石は入っていなかった。
「あ、あれ、ねえなぁ」
遊馬は他のすべてのポケットも探したが、石はどこにも入っていなかった。
「……」
それは当然のことだ、とアストラルは思った。今の遊馬は、魂のみの霊体だ。身につけているものは、体と一緒に置いてきてしまっているのだろう。
「なくしたのかなぁ」
「皇の鍵か?」
「違うんだけどさ」
魂だけで抜け出して空をふらついてしまうほどにアストラルを探し、未だにこんなにも愛している遊馬と、それを察知して生身で次元の狭間まで駆けつけてしまうほどに、その遊馬を愛してくれているカイト。その両方が、アストラルにとっては愛おしくて仕方のない存在だった。遊馬が見せたいと言っていた石より、きっとずっと大切なものを、二人はアストラルに見せてくれた。
それだけで十分だ。それだけで、たった百年、私は何も憂えずに待っていられる。
「……仮にキミが、カイトを連れてこのままアストラル世界に来て私と一緒になれても」
「!」
アストラルは目を閉じてそう話し始めた。遊馬とカイトが顔を上げる。
「こんな迷い込むように来たのでは、残してきた体の分だけ何かが足りないままだろう。人間である間にできることは全部成し遂げてから、正式に来るんだな」
そして、そう言い終えてから上げられた瞼の奥の、透明と蜜色の瞳は。
遊馬とカイトの行く末を、心の底から祝福している光を揺らしていた。
*****
星空の下、ハートランドのカイトの家まで、魂の遊馬と実体のカイトは、手を取り合って滑り飛ぶ。こんな時でなければ、並んで飛ぶこともできなければ、外で手を重ねることもできなかった。
「ひょーっ、風が気持ちいいなぁ」
「……」
頬に心地良い夜風を魂ではどのように感じているのか、遊馬は間延びした声を上げていた。それを横目に、カイトは苦笑する。
夢と称してアストラルを探し、魂が彷徨い歩いて抜けている遊馬の体を発見する時、いつもカイトが肝を底冷えさせられていることなど、遊馬は少しも知らないのだろう。
それはカイトにとって見慣れた抜け殻だった。このまま魂が帰らなければ――アストラルが言ったように、あのまま次元の境界を踏み越えていれば、永遠に息を続けるだけの肉の塊になってしまう。かつて自分が魂を奪ってきた、ナンバーズの被害者と同じように。
「遊馬」
「ん?」
それを目にする度に、どうしても足が竦んで、カイトは何度でも遊馬を呼び戻してしまう。遊馬は帰ってくる。その度に大泣きして。
遊馬を失って生きる意味を失うことも、遊馬を再び残して逝くことも、恐れていないつもりでいた。それなのに、実態は、泣かせると分かっていてもこうして呼び戻してしまうほどに。
「愛している」
「え」
カイトから告げるのは初めてのその言葉を形にすると、遊馬は一瞬その大きな紅玉の目を見張り、
「……オレもだぜ。ありがと、カイト」
そして、頬を染めてふやけたような笑みを浮かべ、はっきりとそう答えを寄越した。
星空が、限りなく近い。いくらオービタルで飛べるとは言っても、こんな空気の薄いところまで遊馬を迎えに来てしまう自分の心の甘やかな隙に、カイトはどうしてか悪い気がしなくて、笑みをこぼしてしまうのだった。
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アストラルに似てるカイトっていいなぁと思ってたら長くなった