Sucre file doux et amer
アストラル世界への道を開く装置はほぼ完成した。カイトが話を持ちかけてきた時、ちょうど私の研究が一つ形になったところだった。それを活かす形で行程を短縮できたのが効いていたかもしれない。
だが、まだ詰めが残っている。何しろ、生きた人間を無事に異世界に送らなければならず、それも検証もできない一発勝負だ。どこまで計算を尽くしても十分とは言えなかったが、一方で許された時間には限りがあるのだ。今日も一日が終わることに抑えきれない焦りを覚えながら、私もカイトも、眠りに就く前の時間を惜しんで調整作業を進めていた。
「……?」
私はプログラム言語の最終化を進めていたが、エネルギー充填に関わる項に最後に見た時にはなかった一行が追加されていることに気づいた。カイトが入れたものだろうが、どういう意図だろう。
「カイト、ここの式だが…」
だが、私が振り返ると、ソファに座っていたはずのカイトから返事はなかった。
「……」
見覚えの――いや、どちらかというと身に覚えのある状態だった。カイトは半分ソファに体を沈めて瞼を落としていた。若い頃、まだ何日も徹夜していた時に、私自身よく陥っていた、浅い眠りだ。
「カイト、大丈夫か」
寝るにしても、この極寒の地で、室内とは言えこんな寝方は良くない。私はカイトのソファへ歩き、その肩に手を触れる。
「……、」
それだけで、カイトの眉が寄り、瞼の下の目が動いたのが分かった。眠りはごくごく浅いようだ。
「カイト、寝るなら…」
なので、私はその肩を少し揺すっただけでカイトの意識を引き戻すことに成功した。重そうな瞼の下から青い瞳が覗くのにそう時間はかからず、
「大丈夫です、クリ…」
だが、その唇が動いた形は、ひどく『今』と似つかわしくないものだった。
「……」
「……」
私は思わず言葉を失ってしまった。カイトも、我に返りつつあるのだろうか、その沈黙が、ただ覚醒しきっていないそれから、徐々に気まずい空気を孕んでくる。
「……寝てたのか」
口火を切ったのはカイトの方だった。目の間を指で押さえながら、数度瞬きを繰り返している。
「…少しだがな。寝るなら潔くきちんと休むことだ」
「あんたにだけは言われたくないな…」
それで私も取り繕えば、軽口が返ってきた。私は唇だけで笑った。確かに、今までは逆の状況の方がはるかに多かった気がする。
カイトは作業を続けることを諦めたようで、機器のシャットダウンを始めていた。彼はこういう時の引き際は潔い。何が一番重要で、そのための最大限の効率化のために何をすべきか、正しく判断できるようになっていた。
ハルトを救おうとしていた時――カイトの選んだそれは、自分をすべて捨てるという選択だった。
そうさせたのは、恐らく、私だろう。
「昔の夢でも、見ていたのか」
「……」
試しに石を投げれば、カイトは答えなかった。デュエルカーニバルでの戦い以来、その話をまともにしたことはなかった。アストラルが消滅した後、カイトは無言で私の前に現れ、私も無言でそれを迎えた。互いに過去の自分の選択を後悔も絶望もしていなかった。むしろそれらの出来事や経験を積み上げ、乗り越えてきたからこそ、ここからの今後を見据えることができるだろうと思えた。
だが、こうして改めて過去を振り返った時、カイトの立場から見れば。
私は、私の目的のため――私の弱さのため、カイトに期待を抱かせた挙句、奈落に突き落とした。その事実も、揺るぎようのないものだ。
「……私を恨んでいるか、カイト?」
「……」
ならば、この機会に、あえてそれを確認してみてもいいかもしれない。多少泥臭いが、それを忌避する理由もない。こうして確かめておけば、こんなことがある度に微妙な気分をカイトに抱かせることもないだろう。
それで何かが得られるわけではないだろうが、失われるわけでもまた、ないのだから。
「…分かりきっていることを聞かないでくれ」
カイトは、私の目を見ずに、そう言葉にはせずに、だがはっきりと、否定した。
「分かりきっていることを聞かないでくれ」
クリスが突然そんなことを――それも今更――言い出した意図が、オレにはよく分からなかった。
あの断絶がなかったことになったら、オレの半分はなかったことになってしまうだろう。あの時この人がオレを捨てたからこそ、オレは地獄に耐える力も一人で立つ力も手に入れたのだし、それがあったからこそこの人に一度は勝てた。その根底が崩れることは、それを包括した上で形成されたはずの今のこの信頼も否定することと同じだ。
「……」
だが、この人の方だってそれが分かっていないはずはないだろう。それをあえて尋ねてきたからには、何かの意図があってのことだ。ならばオレも、それに正面から答えなければならないだろう。
「オレを強くしたのはあなただ…むしろ、感謝してるさ」
だが、いざこうして言葉にしてみると、どうにも居心地が悪いというか、本心と言語に乖離がある気がする。そうなのだろうか、オレが思っていたことは、こんな薄っぺらいことだっただろうか?だが、他に言いようも見つからない。
オレがそんなことを考えながら、自分でも分かるほど眉をしかめていると、
「…」
クリスが息で笑う気配がした。
「…君と、大人同士として話ができる日が来るとはな…」
そして、目を上げた先でそう零す彼は、年月を刻んだ、複雑な微笑を浮かべていた。
確かに、あの時のクリスとオレは、大人と子供だった。たとえ二つしか違わなくても、オレの立ち位置はクリスに大人を強要していた。クリスに、優秀で繊細だったこの人に、無理を強いる関係だった。もし親父とトロンのことがなかったとしても、あのまま続いていて望ましい関係になったかどうかは分からない。
だから、あの断絶も、それが良くも悪くももたらしたものも、こうして並び立つことができるようになるための必然だったのかもしれない。
そして、そう考えることができるようになったということだけでも、無駄なものなど何もないと思えるのだ。
(大人同士…か)
一方で、その字面に対して、不意に下らない悪魔の閃きが訪れる。
これだけ泥臭いやりとりの後なら、たまにはそれに唆されるのも悪くない。オレは試しにクリスの長い髪の先を拾って、唇を寄せた。
「…大人同士?ずいぶん積極的なことを言う人だ」
案の定、クリスの顔から表情という表情が吹き飛んでいくのが見えた。彼には思いも寄らないことだろう、この人の中のオレは、まだこんなことを言い出すような歪み方はしていない頃の姿のままかもしれない。
「…カイト。質の悪い冗談だ」
クリスは困惑したような声だった。オレは、意図的に目を細める。
「冗談かどうか、確かめてみるがいい」
そして髪を絡めた指に寄せたままの唇を持ち上げれば、クリスが目を細くしたのが――半分くらい満更でもなさそうなそれが、見えた。
そう、恨んでなどまるでいない。
だが、これくらいなら。
(あなたがオレをどう変えたのか、もっと思い知らせてやろう)
遊馬のため、世界のためにと極寒の地で煮詰まる頭を解すのに、あなたの愛を利用することくらいなら、許されたっていいだろう。
苦くも甘い、熱くも堅い、美しい飴細工のようなあなたの愛を。
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外村ちよ先生に差し上げました。お誕生日おめでとうございました!