39℃に赤く寄り添う
ここ数日、何となく、喉が痛いと思っていた。だが倒れるほどのことにはならないだろうと思っていたし、そんなことにはさせまいと気を張っていたつもりだった。
「……」
だが裏腹に、違和感は無情にも増大していった。頭が痺れる。手足の先に違和感があり、重い。身に覚えがある感覚だった。はるか昔に捨ててきたはずの甘えた症状――熱がある。
諦めて計測する。39.0℃。逃れようもない。
「オービタル」
オレは仕方なく、間抜けな部下を呼んだ。
「カシコマリッ」
すぐにやってきたオービタルは、オレの異常に気づくことなくやかましい声を立てる。顔には出ていないということか。結構なことだが、だからと言って今無理を続ける方が効率が悪いことは知っている。
「……ハルトを近づけるな」
「ハ…?」
真意を掴みかねたらしいオービタルが、首を伸ばした。説明も面倒だ、その温度感知部位に、オレは指を触れる。
「ヤヤヤヤ!?カカカイトサマがオ熱ヲ!?ヒエエエエタダイマオクスリヲ…!」
その瞬間、事態を察知したオービタルは、先ほどまでのやかましさとは比べ物にならないほどの大騒ぎを始めた――ただ騒いでいるだけなら張っ倒すところだが、一応必要な薬、検査の準備、すべてこなしているので言葉を飲み込む。何より、今こいつを咎めるだけのエネルギーが惜しかった。
「ダイジョウブデアリマスカ、お加減ハイカガデスカ、カイトサマ」
「ごちゃごちゃ騒ぐな…頭に響く」
「カッ…カシコマリッ」
オレは、自分でもできる検査を事務的にこなした。インフルエンザなし、ノロウィルスの症状なし。喉の腫れ、飲み込むと痛む。――考えられる中で最もそれらしいのは扁桃炎だった。体調が崩れた時に、常在菌が引き起こす炎症。
「……」
ハルトのことを考えれば、感染性でなかったのは良かったのかもしれない。だが、あまりにも無様でどうにかなりそうだ。勝手に弱って出る類の病気を避けられないとは。オレの体は、心は、こんなことにも勝てないのか。
「今日の予定をすべてキャンセルしろ…オレは休む」
だが、なってしまったものは仕方がない。オレはオービタルにそう命令して、寝室に向かった。こうなれば、少しでも早く片をつけるだけだ。扁桃炎なら、一日休んで薬で叩けば十分なはずだ。ロスは最小限で済むだろう。
「カシコマリッ!カイトサマ、ドウカごユックリ…」
オービタルの声が心許なさそうに追いかけてきたのを踏みつけて、オレは自室の扉を閉めた。
***********
時間が伸び縮みする。10分が永遠とも思えるほど長く、3時間が一瞬だ。熱が高すぎるのか。体の端々に星が散る。いつまで経っても、気分は最悪だった。
熱。39℃。39。少し前までは、気にしたこともなかったその数字。
(希望皇…ホープ)
黄色く、気高いその姿がぼんやりと浮かぶ。少し間違えれば、オレが遊馬の魂に手を汚して回収するはずだった、オレを救った神のカード。
「……?」
不意に、その黄色とは違う、だが全く違うわけでもない、慕わしい赤い光がふたつ、目に入った。
「いっけね、起きちまったか」
薄暗がりに浮かぶその赤が、悪戯のばれた子供のような細まり方をした。――ような、ではない。本来子供なのだ、遊馬は。
「何をしに来た…」
オレの声は、自分でも驚くほどか細かった。鬱陶しいと言えば嘘になる、むしろ愛おしく思う奴だが、こんな醜態を晒したい相手ではない。
「お前に構う気力はない…帰れ」
「……」
遊馬は、普段のやかましさが嘘のように何も言わなかった。今のオレの頭には大声が響くことを知っているようだった。本当に、これは遊馬なのか。オレの夢か何かなのではないか。だとすれば、何と都合のいい夢だ。
「……」
都合のいい…?
オレは遊馬に、来て欲しいなどと思っていたというのか?
「!」
そんな詮無い考えが頭を巡っている間に、遊馬はぎょっとするようなことをしていた。一瞬、冷えた外気が肌に触れ、かと思えば、陽だまりのような埃っぽい香りが、すぐ近くを漂う。遊馬が、オレの隣に侵入してきたのだった。オレの胸に勝手にすり寄り、あっつ、などと声を上げている。あまりにも奇想天外な、バカとしか言いようがない行動に、オレはこれが夢などではなく本人なのだと思い知った。
「何を…してる」
「うつらないんだろ?じゃあいいじゃん」
「そういう問題…」
「無理すんなよ」
遊馬は相変わらず普段より低い声のまま、それでいて自信だけはやたらに満ちている強い調子で、言い切った。無理するなだと?させているのは誰だ。相手をする気力はないと言っているはずだろうが。
オレが心から呆れ果てながら、完全に余計なだけの労力をかけさせるその肩を押し返そうとすると、
「ほんとにじゃまか?それなら帰るけどさ」
遊馬は、そのやわらかい赤で、オレを上目遣いにじっと見つめてきた。
「……」
やわらかい、としか言いようのない、歳不相応の慈愛に満ちた赤、だった。
「…帰れ」
「……」
オレは捻り出すように拒絶を口にしたが、遊馬は動く気配を見せなかった。こうなってしまうともうだめだ。こいつはオレの真意を拾い上げてしまう。真っ向から敵対していた頃から、一度も間違えることなく。
「カイトは、」
遊馬は、そう囁くように言いながら、オレの背に手を回した。その腕は細いし、オレを包み込むだけの長さもない。
「いっつもかっこいいんだからさ。こういう時くらい力抜いたって、それが引っくり返ったりなんかしないぜ」
それなのに、何よりも誰よりも、こんな時まで張り詰めようとしているオレの心を融かす温度を携えている。39℃の熱を出しているオレが、あたたかいと感じてしまう温度を。
こんな時くらい、と遊馬は言った。
体が弱る時の、引きずられて弱る心。遊馬は、その心細さを知っているのだ。
呼んでもいないのに、どころか体調を崩したことを知らせてもいないのに、オレのそれを敏感に察知して勝手にやってきた。看病に働くでもなく、ただオレに寄り添おうとする。オレが借りを作るのを嫌うのを知っていて、余計な気を回すことなどせず、ただその孤独だけは放っておくことができずに拾い上げに来たと。
オレの心も、弱っているというのだろうか。
「……」
そんな情けないことがあってたまるか、と思うのに、あぁ、どうしようもなく、安心する。燃えるような体に寄り添う人肌が、涙がにじみそうになるほど甘い。歌うような囁きに乗せて吹き込まれる言葉が、気づきもしなかった寂しさを浮き上がらせ、そして溶かしていくのだ。
一体何なんだ、お前は。夢でもないくせに、オレの神にでもなろうと言うのか。
遊馬が、もぞもぞと動いたと思ったら、オレの喉に唇をつけた。
「…っ、」
違う、つけた、だけではない。噛んだり吸ったりして、痕を残すような意図を明確に示している。熱で浮かされた肌には想定外の刺激で、冷感と快楽が同時に散るようだった。
何のつもりだ。オレが大人しくしていれば、いい気になったんじゃないだろうな。
「のど、あっついな」
「……ふざけるなよ」
「こわい顔すんなよ。おまじないだって」
遊馬は、だが、それ以上は何もせずに、オレの喉をするっと撫でた。
「カイトがすぐ、オレに仕返しできるくらい元気になる、おまじない」
そしてそう言ったかと思うと、その赤が見えなくなるくらいの満面の笑みを一つ浮かべて、またオレの体にぴったりと寄り添ってしまった。
(かみさまなんかじゃねえよ。カイトが大好きなだけの、ガキなんだぜ)
「……」
そういうことだったのか。オレが抱きかけた信仰心を崩すための、目に見えた悪戯か。オレを甘やかそうとはするくせに、オレにひれ伏させはしないと。
元々考えるより行動する方が得意な遊馬は、その奇跡的なバランスを自然に完璧に実現できるほどの器用さはない。それでもそれを達成したくて、オレを助けたくて、お前なりに真剣に考えた結果がこれなのか。そんな柄でもないくせに、小悪魔にさえなってみせるというのか。
「……覚えてろよ」
オレはそう捨て台詞を吐いて、一つ降参した。オレに抱きつく遊馬の背に、オレ自身も腕を回す。
「その意気だぜ」
遊馬は、まるでそれがこの世で一番嬉しいことでもあるかのような花の綻ぶような声で、オレの胸に頬を寄せた。
その心意気に免じて、今だけ、心をお前に預けてやろう。
オレの内側に、心行くまで、入り込ませてやろう。
***********
「カイトー!」
次に遊馬が顔を見せた時には、あの時と同一人物だったとは思えない、いつも通りのやかましさを取り戻していた。
「元気になったのかー?」
「まあな」
オレが短く答えると、遊馬はよっしゃなどと言って、自分のことのように跳ね回る。本当に、こうして見ていれば本人の言う通り、ただのガキ――ただのバカなガキだ。
「ところで」
オレは、辺り構わず弾み回っているボールのような赤の、襟首を掴んだ。息が詰まったのだろう遊馬が、汚い声を上げる。
「忘れたわけじゃないだろうな」
「えっ…あ…」
そう詰め寄れば、バツの悪そうな顔でその赤い大きな目を逸らす遊馬。それこそ、あれが夢などではなかったことの証だ。
オレは息を漏らして笑い、あの時の遊馬と同じように、その赤い襟を寛げて顔を寄せた。
「ひ、あ…!?」
あの時と同じ、太陽と埃の香りが立つ肌を、丹念に味わう。遊馬は面白いほど感度が高い、オレが歯を立てるその度に妙な声が上がり、手足の先が跳ねた。
「な、なななんだよカイトいきなり!?」
オレが顔を離すと、遊馬は自分の喉を抑えて、素っ頓狂な声を出しながらステップアウトした。オレは、答える前に、意図的に唇を舐める。遊馬がそれを見て目を円くし、そして茹で蛸のように赤くなるのが、コマ送りのようにはっきりと見えた。
「『仕返し』だ」
そう言って笑ってやると、遊馬は、赤面したまま、何も言えずに口をパクパクさせていた。
「望み通り、元気になってやったぞ」
「く…くっそぉ」
そう、お前の望み通りだ。
お前がオレを溶かせるからと言って、お前を聖なるものと崇めたりなどしない。
等身大の、質量と温度を持つ九十九遊馬として、浅ましく愛してやろう。
*********
「カイトサマ。間もなく到着デアリマス」
オービタル7の声が聞こえて、オレは瞼を持ち上げる。その言葉通り、ギャラクシーアイズ誕生の地、月が、目に見えるところまで迫っていた。
「……」
こんな時に思い出を振り返るなど、柄でもない。だが、そう昔のことではないのに、随分懐かしいことのように思える。
体は弱っている。目が焦点を結ばないだけではない、あの時などとは比べ物にもならない。恐らく、宇宙空間でのこの決戦を耐え抜くことはできないと、本能的に分かる。
だが、それなのに、心はまるで弱っていないのを感じる。
『カイトがすぐ、オレに仕返しできるくらい元気になるおまじない』
もう当然痕は残っていない喉に、触れる。あの戯事が、オレの意志を支え、進ませる力として残っているとでもいうのか。本当にまじないとして効いているとでも。――だが、一方で、確信がある。遊馬の望む『元気』に戻ることは、今度ばかりはできないだろう。そういう意味で、神などではない遊馬がかけたまじないは、無効だ。
遊馬。
もしオレが目標を達したら、お前にすべて背負わせることになるのかもしれない。聖なるものと崇めたりしないと言いながら、それに近い過大なものを、お前に押しつけることになるのかもしれない。
だからこそ、ただでオレを失わせるようなことはしない。
この命をすべて使って、オレはお前の道になる。
お前がその39℃を忘れないように。前を向いて、歩いていけるように。
135話の衝撃が大きすぎて全部その辺の話になってました
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