甘くなる
この国に来て、必然的に晴矢と同じ部屋に住むようになって、まだ間もない頃のこと。
それは私が夕飯を終えて後片付けをしている最中だった。
「いてっ」
テレビを見ながらまだ食べていた晴矢から、短く簡潔な声が聞こえた。
「どうしたんだ?」
「いやぁ別に…ちょっと思いっきり唇噛んだだけ」
晴矢は下唇を舐めながら言った。見れば血が出ている。どれだけ強く噛んだんだ、と言おうとして、あぁ、確かに晴矢の歯は尖っているから、角度によってはそうかもしれないと納得した。その歯の切れ味はもう何度も身を以って知っている。
晴矢は切れた唇の傷を舐めていた。その傷から晴矢の舌に舐め取られては滲んでくる赤い血、という光景は目を奪われたものだったがしかし、そうして舐め取られる度に血は止まっていった。少しだけ残念に思いながら私は目を食器洗いへ戻す。
そうしてしばらくまたテレビの音と流しの音だけがして、私が食器を洗い終わって水を止めた時、
「いてっ!くそっ」
晴矢がまた短く唸った。
「今度は何だ」
手を拭きながら晴矢のいる卓袱台へ戻って行ったら、
「同じとこ噛んだ」
片目閉じて痛そうにしながら晴矢は簡潔にそう答えた。馬鹿だな、と言おうとしたが思いとどまった。大体そういう時というのは重なるんだ。一度噛むと二回三回噛むことはままある。
「薬塗るか?」
「おーさんきゅ」
私はすぐ近くの棚へ二歩で近寄り、その上にある薬箱から有名な名前のクリームを取り出した。蓋を開けながら卓袱台へ戻り、晴矢の隣に座って目の前に置いてやる。晴矢は顔をしかめながら目で軽く礼を寄越したが、同じところをやったのでまだ血が止まらないらしく、また舐めている。薬の出番はまだのようだった。
血が出る先から晴矢の舌先に掬い取られて行く、二度目のそれは今度は私の眼前で繰り広げられる。じっと見ていたら、晴矢と目が合った。痛がってしかめっ面だった晴矢が、私の目を見て急に無表情になった。そのまま何の意味もなく3秒視線が交わる。
私は自分の中の何かに促されるままに身を乗り出して、まだ血の滲む傷に唇を押し当てた。鉄の香りが広がる。一旦離れて、少し濡れた自分の唇を舐めたら、同じ味が舌先に染み渡った。これが晴矢の血の味、と思ったら頭が痺れるようだった。もっと欲しいと、今度は唇を重ねて傷に舌を這わせて、さっきまで晴矢が自分でそうしていたように滲み出てくる血を舐めて味わって、また出てきたものを舐めて。あぁ何だか夢中になる。この生ぬるい鉄くささが晴矢。それだけで蜂蜜よりずっと甘い。
「なんだよ、積極的だな」
唇を離した隙に晴矢が嗤った。無表情も好きだけど、その顔も好き。君はかっこいい。蔑むような顔で、でも本当に蔑んではいないんだ、たまらない。
「血、止まったな?」
「おかげさまでな」
「それ塗っておけよ」
そう言って離れようとしたら、
「風介」
「ん?」
「塗ってくれよ」
晴矢が、そう言って、今度は笑った。バーンだった時よく見た自信に溢れた笑顔。そう言えばお前はやるだろ?とでも言いたげな。
私は黙って微笑んだ。一度立ち上がりかけた膝をまたついて、開いたまま置いてあった薬を右手の薬指にを掬い取る。独特の匂いを放つその黄色いクリームを少し眺めたあと、晴矢に目を移してから、何の傷もない自分の下唇に乗せて、引いてみせた。
晴矢が笑みを浮かべたので私も口角を上げる。
そっと唇を合わせ、撫でるようなキスを繰り返して薬を晴矢に移してしまおうとしたけれど、思うように塗ってやることができず、そのうちどうでも良くなった。
どちらからともなくキスが深まって、薬と血の残り香が混ざったような味が広がり出す。
「ふ…っ」
けれどそれもいいと思った。
薬の味でも甘い甘い。
それは生温い幸せの味。
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ネタ提供椎名奏様!「風介が唇にオロ○イン塗ってくれる」を「風介の唇がオロナ○ン」に空目した私^▽^ 久々に甘々で自分でびびる…