神の欠片



遊馬が、姿を現さなくなった。

元々、有事でもなければ――いや、有事であったとしても、そう頻繁に顔を合わせるような間柄ではない。それが普通と言えば普通だった。まして、彼には中学生という本分があり、オレも本格的に研究の仕事を始めることになった。特に用事がないなら、生活が自然に重なるということはあまりない。
だが、こうして有事もなくなると、オレたちの間の距離は驚くほど開くのだと分かった。顔を合わせることはおろか、用がなければ連絡さえ珍しくなる。それがないからと言って不安になるような関係ではないのだが、それにしても、気づけばかなり長いこと、オレは遊馬の姿を目にしていないことに気づいた。

世界の平和は取り戻され、戦いで散った命もすべて息を吹き返した。アストラルがヌメロンコードに願ったのは、遊馬が笑顔であれる世界だったはずだ。この世界で生きている限り、遊馬が致命的に悲しんだり、不安に思ったり、そういう負の現象はそう簡単には起こらないだろう。

だが、遊馬は、アストラルを失っている。

何もかもが取り戻されているからこそ、余計に強く、アストラルの喪失だけを意識してしまうことがあるのではないだろうか。オレはこの世界に戻ってきた時に、二度と見ることができないと覚悟した、遊馬の――愛おしいその姿を目にした時に、それを危惧したはずなのだ。
だが、こうして遊馬を目にしない時間が長くなると、それを確かめる術がない。毎日顔を合わせているクリスの弟であるVが遊馬と同じ学校に通っていて、そのクリスから遊馬の様子がおかしいようだとは聞かされていないのだから、あからさまな異常はないのだろう。しかし、こればかりは伝聞ではすべてを把握することはできない。まして遊馬は、意外にも、その悲しみを素直に表現しようとはしない。その異常が、誰の目にも映るとは限らないのだから。


***********

「か、カイトぉ!?」
そういうわけで、オレはある夜、無断で遊馬の部屋まで飛んだ。オレを見上げて声を上げる遊馬は、月明かりの差す屋根裏で、カードを広げていた。
「な、なんか用でもあった…?」
「用なく会いに来たら悪いか」
「えっ…ええ〜〜」
驚きのためだろう、遊馬は若干顔を引き攣らせたまま、それでも一応、窓を開けてオレを迎え入れた。
父親の土産物だという数々の雑貨に囲まれて、遊馬が雑多に広げているカードをちらりと見る。淡い月の光を受けて、カードの名前を刻む箔押しの字が、時折強く反射している。
「……デッキの調整か」
オレがそれに目を落としながら言うと、遊馬の表情からようやく強張りが吹き飛んだ、ような気がした。
「おぅ!毎日デュエルする奴らがいるからな!みんな強えんだぜ」
そう言って破願する彼の大きな目も白い歯も、憂いを帯びているようには見えない。Vも何も言ってこない通り、遊馬は何の心配もないほど元気で、幸福を享受しているのかもしれない。相変わらずデュエルを心の底から楽しんでいると思わせる、明るい、眩しい笑みだった。
「……」
だが――本当にそうか。オレは目を細める。箔押しの反射のように、時折その大きな赤い目にちらつくものはないか。強張りは、本当に驚きだけが理由か。どこにも不自然なところがないと、はっきり言い切れるか。
「……オレのところには来ないな」
「!」
そう、遊馬は、オレにデュエルを挑みに来ない。
オレが月で息絶える前、涙ながらに約束した再戦を、いつでもできるようになった今、まだ果たしていない。
遊馬が、憧れだと言い切るこのオレとだけ、デュエルをしようとしていないのだ。
「……」
この、少し手を払えば掻き消えそうなほどかすかな違和感の原因は、それなのだろうか。オレは、目を凝らしてその正体を見ようとした。
もちろん、それだけではないだろう。だが。

遊馬は、もっとオレを愛していたはずだ。

「だっ…だってカイト、忙しくなっただろ…」
「……」
オレの指摘に、遊馬はそれまでと比べ、目に見えてうろたえた。その目線が、両手が、宙を泳ぎ出す。こうしてひとたび捕らえれば、相変わらず、嘘のつけない奴なのだった。
「オレとデュエルしてるひまなんて、ないかと思っ…」
「遊馬」
オレは、しどろもどろに言い訳を並べる遊馬の、弱々しく動き回っている手首を捕まえた。遊馬が息を呑んでオレに向き直る。オレは、その手を引き寄せて、至近距離でその目を真っ直ぐに捉えた。
「本当か?」
「う…」
遊馬は、しばらくオレのその目に応えていたが、ややあってから居心地悪そうに目を伏せた。その中でチラつく反射を、隠したがっているようだった。
「……」
そうやっていると、普段の子供っぽさや太陽のような明るさはなりを潜め、開きかけの蕾のような、危うげな色香が滲み始める。部屋の薄暗さが、それを増長する。
「……だって、やだよ。カイトに会うのは」
「……」
遊馬は、観念したようにその言葉を白状した。オレはそれで、ようやくすべての合点がいく。やはり、そうか。
「何でも……バレちまうから」
遊馬は、オレを――彼のわずかな異変でも逃さないであろうオレの目を、避けていたのだ。

「何を、隠してる」
とは言え、これだけかすかでは、その異常の中身まで見通せるほどオレは超人ではない。オレは遊馬に詰め寄った。遊馬とて、ここまで言っておきながらそれだけを頑なに言い渋ることはないだろう。
「……」
遊馬は、ゆっくりとオレに目を戻した。いつも通りの力強さを秘めた、真っ直ぐな視線がオレの青を射抜く。

その、目の中の箔の煌きが、一際舞い踊ったような気がした。
「!!」

その瞬間、遊馬の存在が、『透けた』。

「遊馬!!」
慌ててその体を抱きしめると、遊馬の『透明化』はすぐに収束した。――姿が消えていこうとしたわけではなかった。腕の中に遊馬の質量は確かに感じられるし、鼓動も確かにある。もっとも、今はオレの脈が速すぎてそれが明確に伝わるのを邪魔している。何だ、今のは。遊馬は今何をしようとした。
遊馬が、長い息を吐いたのが分かった。何か、やっぱりな、という言葉を乗せたそうな息だった。それだって、確かな温度と湿度を持ったまま、オレの服の中に吹き込まれる。
「…ほらな」
そう言ってオレを見上げ、らしくない穏やかさで細められる目の中には、やはり、弱々しい光の破片がチラついていた。
「遊馬、お前…」
オレは、ようやく収束しつつある動揺の余韻に、まだ青ざめている自分を自覚せざるを得なかった。

その光の破片は、知っている。かつてこいつを送り出した装置越しにも、遠くに同じものを見た。
遊馬は、毎日を楽しく過ごす仮面の下で、自分の『人間』を、少しずつ削り取っていたと言うのか。オレが少し目を離している間に、こんなにも容易に『向こう』に近くなることができるようになるまでに?
こんなギリギリの、まるで刃の上に立っているような危うさで、辛くもこの世界に留まっていると言うのか。

「……」
あぁ、アストラル。お前が願ったはずの遊馬の幸福は、やはりどこか軋んでいるようだ。
お前という大きすぎる存在を失って、弱々しく光るその欠片を、遊馬は捨てきれずにいる。



オレは、見上げてくる遊馬の頬を、両手で掴んだ。遊馬が、弾かれたように目を――光が散ったままの大きな赤を、円くする。その顔を、構わず引き寄せて、オレはオレの息を遊馬のそれに重ねた。
「う」
短い声とともに、遊馬の息を、舌を、唇を、熱を、掬うように奪い取る。
丹念にオレと混ぜて。それごと遊馬の喉の奥へと返す。
「な、なに、す…」
一度離れれば何か言いかけた唇を、オレは吸い戻されるように再度塞いだ。
「……、」
上手く応えられずに声を失う遊馬に、もう一度オレを吹き込む。

戻れ、遊馬。
お前は、人間だ。
オレと同じ、人間なんだ。


「カイト…」
呆然と呟く遊馬は、余韻に少し頬を赤らめていて――年相応、そして遊馬という存在ならではの、危うい艶かしさを、もはや無遠慮に撒き散らしていた。
「……」
オレは、その体を再度抱きしめる。あぁ、遊馬の前では、オレはひどく無力だった。姿を見ない間にこいつが人間を削っていたことにも気がつけず、その存在が消えかかった時も腕に収めることしかできなかった。こいつがその気になれば、そんなことが抑止力になるはずもないというのに。

「オレには…隠すな、遊馬」
絞り出したその言葉は、懇願に近い響きを持ってオレの喉から離れていった。

お前の魂が異世界へ、アストラルのもとへ帰ろうとするならそれでもいいのだ。
だが、その引き金が『不安』なうちは、オレはお前を手放さない。
お前が不安でお前自身の人間を削るなら、その分オレの人間を吹き込んで、何度でも人間を取り戻させてやる。
お前が『安心』して旅立てるようになるまで、何度でも。

「!」
突如、大人しくしていた遊馬の腕に力が入る。抵抗を忘れていれば、オレの背は床に接することになった。
真上に遊馬の、オレの胸に埋まっていた顔が見える。苦悶を取り戻したかのように歪んだ顔。月の光に照らされるその目の中に、光の破片は今は見えなかった。
「……じゃあ、ホントに聞いてくれんのかよ?どんなことでも?」
オレに跨りながら遊馬は、喉から似合わない憎まれ口を捻り出して、その瞳を揺らす。
ヒトとしての涙で、揺らす。
「……」
オレは手を上へ伸ばし、その柔らかい頬に指を触れて、うっすら笑ってみせた。
「望むところだ」

「……」
それを聞いて、堰を切ったようにくしゃくしゃに顔を歪めるこいつは。
あぁ、やはり、神なるものにしては愛おしすぎる。


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遊馬には人間でいてほしい〜