Nausea
「飛鷹君、誕生日いつ?」
「綱海さーん、誕生日教えて下さいっ!」
「あの…土方さん、誕生日教えてもらえるかな…」
ある日の夕飯後、ミーティング前に皆がたむろしている部屋で、マネージャーの子達が忙しそうに走り回って聞いていた。元々雷門中にいたメンバーは聞かれていないところを見ると、彼女達が誕生日を知らないメンバーにだけ聞いているのだろう。
「……」
この場合オレも当てはまるはずなんだけど、木野さんも音無さんも分かっているんだろう、聞いてきたりすることはなかった。そもそも音無さんもそのお兄さんの鬼道君も孤児だから正確な誕生日が分からない側の人間だ。その辺りの気遣いはしっかりしていた。
でもライオコット島に来て緑川がいなくなってから、誕生日が知られていなくて分からないのはオレだけだ。だからどうというわけではない、ただ、オレだけ。そういう異質性は何も誕生日に限ったことじゃなくて、エイリア学園だったのがオレ一人になってから結構よくあった。だからどうというわけではない。たとえ緑川がいたとして傷の舐め合いみたいなことをしてもしょうがないし、こんなことは些細なことだ。グランでいた時の方がずっと気を張っていなければならなかった。
「ミーティングを始めるぞ。席につけ」
久遠監督が入ってきて声をかける。雑談はそこで途切れて、オレもいつもの席についた。
でも、もし、誕生日。
『基山君、誕生日いつ?』
基山ヒロトの誕生日は父さんに初めて会った日、名前をもらった日ってことになるんだろうか。
でもそれは、確かに基山ヒロトの誕生日ではあるだろうけど、本当にオレのものでもあるんだろうか?たまに分からなくなる。父さんがくれたもののうち、本当にオレだけのものだったのはグランだけだ。たとえどんなに必要に迫られても、父さんはあのヒロトをグランにはしないだろうから。
ふと我に返る。ミーティングでは、次の試合でのフォーメーションとタクティクスの再確認がされていた。
そう、今は勝ちにいくことが一番の問題だ。円堂君の強くて優しいサッカーが、世界でも輝くのを見たいんだ。そのためにオレができることは何でもしたい。
鬼道君が明日の練習でのフォーメーションを決めている。
とは言っても、
「豪炎寺、虎丸、ヒロト。FWで豪炎寺がセンター、虎丸右、ヒロト左を頼む」
「ああ」
「はいッ!」
「うん」
大体この三人の位置は固定だ。センターはほとんどいつも豪炎寺君だったし、たまに染岡君が入ったりオレが中盤になったりするくらいで、基本的にはイナズマジャパンの左サイドは基山ヒロトの場所だった。
「よーし、みんな!明日も頑張ろうぜ!」
円堂君が片手の拳を上げて明るく言って、それにみんなと一緒におお、と答えた。でも分かってるんだよ、君は明日の前に今日まだ頑張るつもりでいるんだよね。
どうして分かるかといったら―――オレもそうだったからだ。
夜中密かに特訓するっていうのは意外に少なくて、オレがグラウンドを使っても大抵誰ともかち合わなかった。夜になると少しひんやりするグラウンドで、オレは大体シュート練をした。どう考えたって、今一番の課題は決定力不足だ。流星ブレード は、韓国には通用したけどイギリスにはV2でもダメだった。そろそろ潮時なのは薄々分かっていたけど、捨てきれないのはこれがグランの技だからだろう。今のところそれ以外にオレの力を支えてくれるものは何もない。
(でも…そろそろ新しい技を考えないと…)
足元のボールをぼんやり眺める。今はイナズマジャパンの左サイドスタメンの地位はほぼ揺るがないものだけど、もしこのまま決定力不足が続けばその限りじゃない。元ジェネシスのキャプテン、それは良くも悪くもオレの根幹ではあるけれど、そのネームバリューだけしかなくなったら惨めなだけだ。
流星ブレードはグランの技。基山ヒロトの技はまだない。でもオレは基山ヒロトの技を自分のものとして使いこなすことができるんだろうか?
(何か…頭痛い?)
眉間に指を当てる。目疲れでもしたんだろうか。そんな場合じゃないんだけどな。
(新しい…技…)
具体的な何かを思い浮かべられないまま、投げやりに蹴りつけると、ボールはきれいに曲線を描いてゴールに収まり、少しだけ跳ね返って転がってから止まった。
基山ヒロトが本当にオレのものなのかってことも掴みきれてないのに、基山ヒロトの技なんて思い描けるはずがない。けどその問題と真正面から向き合ったら最悪取り返しのつかないことになる気がして、見ないようにしていた。今そんなリスクをとるわけにいかないから。
でも答えのないまま手探りで気持ちだけ先走っても技はできない、当たり前だ。せめてどんな技かくらいは考えないと。
「流星、ブレード!!」
気分を変えるために一度流星ブレードを打った。あぁ、これならこんなにすんなり出てくるのに。
(でもこれはグランの技だ…)
オレはグランを通ってきているけど、今はグランではない。グランはもう誰にも求められていない。
(頭が…)
ボールを拾いにゴールへ歩く。でも、じゃあ、オレは一体誰?グランも基山ヒロトもオレのものじゃないなら、何を自分のものとしてやっていけばいい?
(…痛い)
何か、今日は練習をやめておいた方がいいんだろうか、と思った。調子悪い時にうまくいったためしはない。今は体調管理だって重要だ。もう二、三本打ったら帰ろう、そう決めて、ボールを拾おうと身を屈めたら、
胸の辺りをせり上がってくる嫌な予感。
(…嘘、)
慌ててグラウンド脇の水道へ走る。気のせいのまま収まってくれたらいいのに、走っている間も悪くなっていく一方だ。
何とか水道に辿り着いた時には、もうすぐそこまで来ていた。無我夢中で蛇口を全開にする。
「うぐっ…うぇっ…」
さっき食べた夕飯が、その名残を少しだけ残した無残な姿で目の前に広がり、抵抗しながら流れていく。その間にもまたせり上がる。喉が酸で焼けて熱い、気持ちが悪い。
どうしてこんなことに?夕飯食べたものが何か悪くなってたんだろうか。でもそれなら先にお腹が痛くなったりするだろうし、他の皆が何ともなってないのもおかしい。考えたくないけど、考えたくないけれど、これは、
精神的な弱さ。
(バカ…な)
それだけはないと思っていた。メンタルだけは鍛えられてると思ってたし、それが自信になってもいたのに。口元を拭いながら荒くなる息を整える。口の中はまだ酸っぱい匂いが充満していて、オレは流しっぱなしの水で口をゆすいだ。水道水独特のほろ苦い香りがする。水を吐き出して、オレはしばらくまた俯いたまま踊る息と戦った。
(……どうしたらいい)
こういうのは一度あると癖になると聞く。でも吐きたくないと意識しすぎてもダメな気がする。
(どうする…)
水を止められずにオレは目を閉じた。あぁ何とかしなくては。こんなことで脱落者になるわけにはいかないんだ。
「大変そうだね」
急に、そのザーザーという水音を切り分けるように降ってきた、全く予想外の声。
「?!」
見上げたら、彼はフェンスの上に座っていた。
「アフロディ…?!どうして、ここに」
本当にどうして、彼は韓国代表でライオコット島に来てないはずなのに。そしていつの間にいたのだろう。ついさっきまでは間違いなくいなかった。
「見に来ていたら悪いかな?世界大会だもの、興味があるのは当然だろう」
そう言って、アフロディはそのかなり高いフェンスの上から、どうやっているのかふわりと降りてきた。
「……」
「そう睨まなくったっていいじゃないか、基山君」
「元々こういう目つきなんで。それで、何の用なんだ」
「ホラ、やっぱりトゲトゲしてる」
そう言うと、彼は男のオレから見ても美しいっていう言葉が一番似合うような微笑みを浮かべた。オレは半歩後退った。彼とは試合で顔を合わせたのだって一回だけで、オレにとっては得体が知れない存在だった。
「南雲君と涼野君から話は聞いてるよ。…でも今は苦しんでるみたいだね」
彼はお構い無しといった風情で近寄ってきて、また強気に微笑む。
「…それが分かってるなら今は放っておいてくれないかな。君に構っている余裕は」
「分かっているよ」
オレは彼を追い返そうとしたのだけど、途中で遮られる。思わず眉を跳ね上げて見返せば、彼は全然意に介した様子がないまま続けた。
「元・ジェネシスのキャプテン。そのスペックを期待されるのは重いよね。できて当たり前、決められて当たり前。できなかったら何て言われるか、居場所がなくなるんじゃないか、緑川君みたいに」
「―――!!」
思わずカッとなって手が出そうになるのを必死で抑える。普段なら受け流せても、こんな時にどうしてそんなこと言われなきゃいけないんだ。
「君は自分を過信しているんじゃないかな。そんな状況だったら誰だってストレスを感じるものさ。自分では気付かなくてもね」
今カッとしたのだって、図星だったからだろう?アフロディはそう言って邪気なく笑う。オレは睨み返すことしかできなかった。
ストレスが?溜まっていた?こんなに恵まれてるのに?
オレが誰なのか、ずっと前からある根源的な疑問に悩まされることはあっても、この環境に何か不満や不安や、ましてや圧迫を感じたことなんてない。
「君に…何が分かってそんなことを言うんだ。…あんまり失礼なことばかり言わないでおきなよ。オレを怒らせないでほしいんだ」
そう平静を装うのが精一杯だった。図星だから?いや違う。違うからこんなに腹が立つんだ、そうに決まっている。
「怒らせるつもりなんかないよ。君は冷静に自分の状況を掴める人だと思ったから言ったんだ」
アフロディは髪を後ろに払いながら平然と言った。
「それと、君に何が分かると言ったね。多分何かは分かると思うよ。何故なら僕もそうだったからさ」
「―――え」
続けて流れるように彼が言った言葉に、オレは言い返す言葉を失った。恐らく目を丸くしたオレに、彼は小首を傾げるような仕草をした。
「何だい、その意外そうな顔」
「……」
オレは何も答えられなかった。何て言ったらいいのか全く浮かばなかった。
それを見て取ってか、アフロディは何の動揺もなく続けた。
「イナズマキャラバンに乗って君たちエイリア学園と戦っていた時の僕は今の君と同じ立場だった。元世宇子のキャプテン、神の力を持っていた存在。神のアクアを使わずに、神のアクアを使っていた頃より強くなっていることを期待される」
「……」
「…円堂君のサッカーが楽しかったことも旅が楽しかったことも事実さ。でもそれとは別の話でそういう期待は必ず背負う。…違うかな、イナズマジャパンで毎回必ずスタメンの基山君」
アフロディはそう言うと、不意に距離を縮めてきた。
「―――」
オレは絶句して、彼の目を見ていられずに視線を伏せた。グランは確かに求められていない、けど、彼らが見込んでいるのは確かにグランを通ってきたオレで。
目の前のアフロディは自分の存在に関する疑問を感じたことはないだろう、でも、神のアクアの件があったからには、その重圧に関してはオレ以上だったに違いない。苦しかったのも事実だろう。なのに、エイリアと戦っていたあの時の時点でも、それを話す今でも、淡々としていてそんな苦しみなんか匂わせもしないでいた。
オレが目を上げてもう一度彼を見たら、彼はすぐ近くに来ていたのをいいことに、軽くオレの顎を捉えて悪戯でもするように唇を啄んだ。
「!!」
驚いて息を呑み込むオレの目の前で、アフロディはペロリと唇を舐めた。
「まだ少しゲロ臭いな。もう少し口をゆすいでおいた方がいい」
「…ッ、君は」
何のつもりなんだ、と言おうとしたら、今度は急に抱き締められる。
「でも表からは分からない。君の弱さの香りは僕だけが知っていればいいさ。弱さはみんな僕に押し付けて、君は世界に飛んでおいで」
「――――」
その声の響きが、神のアクアなんかないはずなのに、何か聖人とか、包み込むような何かに満ちていて、オレの体から逆らう力が消えていった。あぁそう、言われたらその通り、今のオレはグランの強さもない、自分の拠り所もない、弱さだらけの14歳の孤児に過ぎない。冷静に分析している振りをして、自分をコントロールできている気になって、オレはやっぱり強くなること、強くあることの呪縛に囚われて、逃げていただけなのかもしれない。ここでこうして弱さを受け入れたら、初めて発揮できる力もあるかもしれない。でもそういう気持ちを含めて何て言ったらいいのか分からなくて、オレは彼の服にすがりつくことしかできなかった。
Nausea:吐き気、嫌悪、ひどく嫌な感じ、むかつき、悪心
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