枕談義



「バレてねーと思ってんじゃねえだろうな」
突然南雲が大層な剣幕でそんなことを言い出したから、私は呆けることしかできなかった。
「は?何の話」
「これ」
机に押しつけられたのは契約書の文字がある白い紙切れだった。
(…あぁ、そのこと)
まさかきみ、怒っている理由がそれなの。だとしたら、私はうっすらと微笑むことしかできなかった。


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そういう取引をしたのは、ずいぶん久しぶりのことだった。それこそ、食うに困って彷徨い歩いていた幼い頃以来かもしれなかった。今はそんなことをしなくても生きてはいけるし、一応、不実ということになるのかもしれないから。
けれど、今回は、それと引きかえに得られるものが悪くない――いやむしろ、十分欲しいと思えるものだった。それくらいの対価で済むなら、いくらでも支払えてしまった。
投票の対象になること。それも14歳のバーンとガゼルとして。
枠に入れるのは一人だけ、でも入れなかったとしても順位ははっきりとつくとのこと。
「分かりました。契約を結ばせて下さい」
今南雲が机に叩きつけているその紙に署名した直後、無遠慮に伸びてきた手さえ、愛おしいと思えた。それほどまでに、それは甘露だった。
(…ふふ、想像だけでゾクゾクするよ)
こんな形で、またエイリア学園のあの頃に戻れるなんて。
他は全部悪夢だったあの頃の、本来の生きがい以上にどうしても楽しめてしまった君との戦いだけ、切り取ってまた手に入れることができるなんて。


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「どうして。悪い話じゃないだろう?」
「テメェ…」
「減るものでもない」
私が動じないことに調子が狂っているのだろう、南雲は押し黙っていた。私はその手から紙切れを指でつまんで、ひらりと取り上げた。
「君だって、何だかんだ言って興味あるでしょ。私とこういう形で戦うの、悪くないと思わないか」
「……」
南雲はしばらく凄い目で私を睨み続けていた。あぁ、その目のぎらつきが他の人間ではどうしても手に入らないものだから、私は彼を愛しているのだけど、逆に言えばそんなことで怯む私ではない――私を喜ばせることにしかならない。そんなこと、彼の方だって知っているだろうに。
「……それ自体はな」
そう思った通りで、しばらくすると南雲は諦めたような溜息を吐いた。それはそうに決まっている。南雲と一緒にいて、ただ年月を重ねているわけじゃない。これが南雲にとっても嬉しいことだと知っていなければ、私だって余計な真似はしなかった。
「…けどテメェが勝手に取ってきた条件で戦っても嬉しくも何ともねぇよ」
けれど、そう続いた言葉は、完全に予想の外側から私の頭を横殴りした。そして、そう言われてみれば確かに彼ならそうだろうと思う言葉だった。あぁ不思議だ、これだけ呼吸が読めるようになったつもりでいて、まだそんな余地が残っているなんて。
「そんな可愛いこと言うな。胸がきゅんとしてしまうよ」
「気色悪ィこと抜かすんじゃねえ」
私が感極まって南雲を抱きしめたら、そうは言いながら彼の方も片手を私の背に回してくれるのだった。
「これだから君といるのはやめられないよ」
「…あっそ」
やわらかさなんてお互いどこにもない、無遠慮な骨と筋肉の、でもこれが私たちの幸せなのだと思える感触なのだった。


「そうだ、どっちが勝ったか結果が出たら、負けた方が勝った方の言うこと何か一つ聞くっていうのはどうだ?」
シャツのボタンを二つ外してその奥に顔を埋める南雲の頭に、私は実に子供じみた思いつきを投げてみた。
「…へぇ、そんな約束していいのか?」
けれど子供はお互い様なようで、唇を私の肌に当てたまま私を見上げる金色の瞳が、私好みの色に光っている。
「…ふふ、君、勝ったら私に何して欲しいの」
思わず身動ぎながら言えば、南雲が私の鎖骨に歯を立てる。
「……、」
「そうだなァ」
私が息を詰めて言葉を失っている間に、南雲はニヤリ、歯を私の肌に当てたまま笑って、妙に鷹揚な調子で声を出した。
「枕営業は禁止、とかな」
けれどその歯の隙間から出てくるのは、相変わらずそんなにも私を愛している言葉で。
「ふ…ふ、まだそんなかわいいこと言ってる、のか」
思わずその赤い髪の間に指を滑らせたら、案の定、少し不貞腐れたような声で、
「かわいいかわいいってうるせーな…テメェはどうなんだよ」
との仰せだった。
「そうだね」
だから私も、とびきりの愛で君に応えることにしようと思った。

「私に勝ってて、って頼むことにしようかな」

「……そしたら結果かわんねえだろ…」
南雲は心底呆れ果てたような、それでいてその実悪い気はしていないのだと分かる息を吐いて、顔を少し上げた。
「ふ、そうかもな」
その喉元に今度は私が手を伸ばして、南雲のボタンを外していく。
「負けて勝たされるのと勝ってるの、どっちが好きかなんて言うまでもないだろう?」
「そーだけど」
「だったら頑張りたまえ」
「頑張りようもねえだろうが」
「まぁ、この件に関してはね…、あっ」
そうやって軽口を叩いていたら、南雲がもたついていた私の手を掴んで、床に縫いとめるように私の体ごと組み敷いてしまった。
「……」
まったく、相変わらず堪え性のない、愛すべき炎だ、今も昔も。
そしてそれを迎え入れて開いてしまう私の足も、結局同類の青い炎なのだった。


心配しなくても、私が心から愛するのも、私をこんなに昂ぶらせるのも、君と寝る枕だけだよ。




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誕生日プレゼントとしてみそさんに差し上げました。今年もおめでとうございました!