次元の狭間


俺はその日、普通に建物の廊下を歩いていたはずだった。そこで、突然すべてのものがガラスよろしく割れて、足元が崩れていった。
不思議と、落下している感覚はなかった。どちらかというと浮遊しているようだった。突如として招かれたその空間に重力の概念はないようだった。辺りは色とりどりの油彩にも、ただ白いだけにも見える。方向の感覚が完全に消えていく。
一体どういうことなんだ。そう思っていると、足元の方向に別の存在の気配を感じた。足の下、はるか遠くに、同じように浮遊している何者かがいる。廻ったり離れたりしながら、徐々にこちらへと流れてくるそれは、オレンジ色の頭をしていた。よく知った、俺が知りたいと思っていた以上にあまりによく知った形をしていた。

「あれ、どういうことだろう。しかも君に会うなんて」
その男、雨宮太陽は、とぼけた声を出した。それもよく知った、癇に障る声だった。
「それはオレも知りたい」
不愉快な気分を抑えて何とか平静を装う。他ならぬこの男の前で無様な真似をしたくなかった。

かつての聖帝、豪炎寺さんに、時空最強イレブンを目指す雷門の旅に同行すること、但しそこにいる雨宮太陽とどちらか一人だ、と告げられた日のことを忘れたことはない。
勝ったのは雨宮太陽だった。そして次に見かけた時、彼は古代中国の諸葛孔明のオーラを取り込むことに成功していて、ミキシトランス後の太陽は彼のランドマークであるところのオレンジ色を失い、白っぽい――そう、俺と同じような髪の色になっていた。
あそこにいたのは俺だったはずだ。そう思うと、爪が掌に食い込むのを止めることができなかった。

「そう、じゃあ、君もタイムジャンプについて行かなかった方なのか」
突然、目の前の太陽が言い出したことに、俺は意識を引き戻された。
「どういうことだ」
言っていることの意味が分からず、俺は思わずそっくり聞き返した。その口ぶりでは、まるで自分もついて行かなかったかのような。
「俺のいる世界では、孔明とミキシマックスしたのは君だったよ」
それを肯定するようなことを言って、太陽は何とも言えない微妙な笑い方をした。
「……」
どういうことだ。あの時パラレルワールドの説明は受けたが、俺が勝つ世界線もあったということなのか。俺とこいつは、そこでも分岐が生じるほどの微妙な差だったのか。ならどうして俺は、この俺は勝てなかった。
「この現象も、一時的なものなんだろうね」
太陽は、微妙な表情のまま、俺から目を逸らすように辺りを見渡していた。
その素振りは俺とはまるで違ったが、それを見ていると、やはりこいつも選ばれなかった方の人間なのだ、と思い知らされるようだった。俺は舌打ちした。俺を負かし去ったはずの雨宮太陽が、自分の鏡になっているザマなど、最も見たくないものだった。

「白竜、向こうの俺をよろしくね」
方向の次に時間感覚が失われるその場所で、太陽がそう言い出したのはどれほど経った時だったのだろうか。
「どういうことだ」
俺は思わず眉を吊り上げた。どうして俺が、俺を負かした奴の面倒を見なければならないのか。
「天馬たちの役に立とうと、肩肘張りすぎているはずなんだ。俺のことだから、分かる」
太陽は相変わらず微妙な表情のまま、自分の手元を見ていた。それは俺とは違う、と思った。俺は選ばれた方の俺がどう振る舞うかなど考える余裕がなかった。
「…それはそっちの俺も同じなんじゃないのか」
試しにそう言えば、
「そんなこともないよ。君は、思った以上にクールでかっこいい」
などという答えが返ってきて、俺は思わずはっきりと眉を寄せた。どう反応すればいいのか。俺じゃない俺を評されても、嬉しくもない。
「褒めろと言ったわけじゃないぞ」
「褒めろと言われて褒めたわけでもないよ。純粋にそう思うのさ」
太陽は偽りを言っているようには見えなかった。だが、その笑みには、どうしても拭い去れない憂いがあった。俺と同じ、自分が選ばれなかった憂い。当然だ、多少相手に敬意を払っていようがいまいが、それが容易く消えるわけがない。
「俺は未だに悔しい。こっちのお前が憎くすらある」
その心情を、俺はそのまま目の前の太陽にぶつけた。そう、俺はこの太陽のようにはいかなかった。俺の世界の選ばれた太陽に敬服する心を素直に抱けなかった。
「それでいいんだよ」
太陽は、そう言って肩を竦めた。
「俺は、優しくされることには飽きてるからね」
「……」
突然豪炎寺さんが連れてきた雨宮太陽という男のことを、俺はほとんど知らない。だが、それでも病気が長かったということだけは聞いた。
「それは、お前がか、それともこっちのお前か」
俺が試しにそう尋ねると、
「さぁ、どっちだろうね」
太陽ははぐらかすようなことを言った。
だが、恐らくその答えは両方だ。
「……」
俺は、自分の悔しさばかり追い掛けて、俺を負かした相手のことを見ようとしてこなかった。今の今まで、雨宮太陽がどういう人物なのかなど、欠片も知らなかった。
選ばれなかった俺ができることがあるのかどうかを、探していなかったのだ。
「俺と君は全然違うけど、意外に近しいから。君になら、安心して頼める気がするんだよね」
そう言って笑う太陽は、先ほどまでとの苦笑とは、少し違う意味合いの微笑を浮かべていた。慈しむようで、憧れるような、それでいてやはり、少し苦さも残った顔。
「……」
その太陽が、また少しずつ遠のくような感覚がある。空間が元に戻ろうとしているのか。俺は思わず手を伸ばしていた。選ばれなかった俺に出会ったことが、選ばれなかった太陽にもたらしたものも、同じようにあるのだろうか。
「分かった!」
掴む目前で、その手は逃げていった。せめて、と声を張り上げて言う。選ばれなかった太陽は、安心したような微笑みを浮かべて、俺の視界から遠のいて消えていった。


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レジジャパが出てくる少し前に書いたものでしたが白竜死ぬほどかっこよかったですね…