浅葱斑
「聞いた?また出たって」
「何が?」
同じ高校のブレザーを着た女子が、数人まとまって校門近くの帰り道を歩きながら喋っている。いつも通り、やかましくも平和な下校の光景だ。
「アサギマダラ」
だったのだ、が。
俺は思わず足を止めかけた。何とか不審にならない程度に歩き続けることに成功する。
「えーまた?」
もちろん、名前通りの蝶が出た、という意味であるはずはない。
「しばらくいなかったのにね」
「親玉が出てくるなんて珍しいけど」
「ねぇどうする、うちらこの制服着てたら狙われちゃったりしてー」
キャーと緊張感のない声が飛び交う中、またか、と俺は内心頭を抱えた。いつになったら懲りるというか、いつまでそんな生産性のないこと続ける気なんだ。
誰が言い出したものなのか、その亜高山帯の蝶の名前が、よく知った冷気のチームのキャプテンを務めてた腐れ縁の片割れと結びつく日が来るとは、あまり思っていなかった。
割と近所に住んではいるのに高校は隣同士の別の学校で、濃い緑のブレザーであるところの俺たちとは一転、赤みがかった黒の学ランが制服の隣の高校に、そいつは通っていて、いや通ってるだけならいいんだけど、入学して半年くらいしたら何か思いも寄らない方向で評判を聞くようになった――隣の高校で、何故か流れで生徒会に入ることになった俺にまで。
いや、まぁ、元々腕っぷしに関しては、そりゃあ、ダイヤモンドダストの頃から鍛えてた体だし、まして蹴りなんて凄いだろう、そりゃあな?そんでもってダイヤモンドダストを率いてた実績もあって、何人かは多分テレビで見たこともあるだろう顔で、そういう奴らに目をつけられたのを跳ね返しちゃったりなんかして、そうなれば人を集める性質にも恵まれてるんだし、まぁ経緯に関しては想像に難くない。更にお誂え向きというか何というか、その集団と、隣であるところの俺の高校のそういう奴らとは伝統的に争いが続いていた。瞬く間に向こうの高校の頭に祭り上げられた涼野は、必然的に俺の高校では敵の筆頭として顔を知られるようになった。名前までは通ってこない、向こうが隠してるから。代わりに通ってる二つ名が、アサギマダラというわけだ。
最初、あいつに冷気以外の名前がつくなんて違和感だらけでしばらく受け入れられなかった俺だったけど、時間が経てば嫌でも慣れる。そうして慣れてみてから考えると、敵に名前つけるようなそういう奴がよくそんな蝶知ってたなぁと思う――今じゃ元の蝶だって俺の高校で知らない奴はいないほど有名になった。暗い赤の翅が翻る度に空を透かして青が映る毒蝶、よく言ったもんだ。青いのは透けた空じゃなくて多分、奴の目なんだろうけど。
エイリア学園が崩壊して、韓国から帰ってきてからは、カオスや韓国の時ほどは一緒にいることもないけど、それでもあれだけの相手とそう簡単に縁が切れるはずもなく、俺と涼野の間の個人的な関係は当然続いてた。けどもし、俺の高校の奴らに、セイトカイのナグモクンが隣の高校のアサギマダラと会ってるところなんか見つかったらそれこそ売国奴扱いだろうなぁと思うと軽く頭が痛い。
しかもアサギマダラになってから、待ち合わせの設定なんてのは意味を成さなくなった。上級生の舎弟を従える学校の番長は、仕事も多いんだそうだ。深く聞いたことないから知らないけど。
『今日いけない』
待ち合わせの時間を二時間も過ぎてから、一言だけのメールが入ると、俺はやれやれとため息をついて、数学の課題の残り一問を片付けた後、鞄を肩に引っ掛けて時間を潰してたコーヒーショップを出る。
本人から聞かなくても当事者に物理的に近いところにいれば分かることは多い。まして生徒会なんかにいて、俺自身の腕だってそう甘ちゃんなわけでもないくらいでいたら、多彩な情報が入ってくる。うちの学校の不良にも色々種類があって、大体三種類くらいの層に分かれてる。分かりやすく言えば雑魚と不良と腐れ外道で、アサギマダラはどうもこの腐れ外道にしか手を出さない、らしい。雑魚は奴の目力だけで萎縮し(何だそりゃ)、不良でもやり方が腐ってなきゃ滅多なことじゃ出てこないとか。あいつがそんな綺麗な考えの奴とは思えないけど、結果としてそうらしい。
で結局あいつが戦う相手は腐った奴ら、動機も酷けりゃやることなすことも酷い、容赦なく卑劣な真似もすりゃ腕っぷしが無駄に強い奴もいて、鍛え抜かれたガゼルの足を持ってるアサギマダラでも苦戦を強いられることは多いようだった。
今日みたいに二時間も遅れた挙句にメールが一言の日なんて、路地裏で死んでるコース一択だ。
「…何をしてるんだい」
案の定ボロボロの体で、黒い壁に暗赤色の翼と銀糸を引っ掛けて脱力してるそいつを見つけたのは、居酒屋の裏っぽい暗くて狭く、ゴミ臭くて汚いビルとビルの狭間だった。
「俺のセリフだっつーの」
「……じゃあ、何をしにきたの。宿敵アサギマダラの敗北を笑いに来た?」
「寝言は寝て言え」
俺が近づくと、鼻血まみれで脱力してた涼野が自力で体を起こす。いつもそうだ、俺は手を差し伸べないし、こいつも俺の手を借りようとはしない。
「俺の宿敵はガゼル一択だろ」
「ふ、間違いないね」
あちこち痛むような素振りで涼野が笑いをこぼす。こんな男の極致みたいな世界で、血と埃にまみれた戦闘要員の顔をしていながら、蝶の名前がついちまうくらいにはキレーな容姿。特に女顔ってわけでもないのに不思議なもんだ。
「鞄は?」
「元々ない」
「あっそ…」
何しに学校行ってんだこいつ。
「舎弟サンたちはどーしたんだよ」
「今日は、いない」
「……」
昔からそうと言えばそうだったのかもしれないけど、涼野は自分に従う奴らを本当に危険なところには晒さないようにしようという意図を持ってる奴だった。だから一人の時が一番危ない奴らと戦う時で、だからこいつからしたら高確率で負ける。何度も同じことになってるのに、変える気はないようだった。まぁ頑固な方がらしいような気もするからいいけど。
「俺が生徒会長になったら政略結婚しようぜ」
「笑える冗談だね」
「冗談じゃねーし」
「君が婿に来るなら考えるよ」
軽口を叩きながら、足を引きずるような涼野の横を歩く。こういう時人目につかずに移動できる道筋というのも、こいつがアサギマダラになってから俺まで詳しくなってしまった。
「なぁ、じゃあ今夜泊まらせろよ、今日のスッポカの分」
「懲りないね。君には触れさせないよ」
軽口に混ぜてずっと口説いてるのに、こいつが靡く様子はゼロだった。それはこいつがアサギマダラになる前からずっとそう。ダイヤモンドダストだった頃から強く意識はしてたけどグランほどじゃなかったのが、カオスを組んでる間にうっかり惚れて――こんな強烈な輝きを持ってる星だとは思ってなかったんだ、しょうがない――でも韓国までの間はサッカーに専念だったから、帰ってきてから猛アタックを始めた。こいつは満更でもなさそうな顔をするくせに、少し手を伸ばそうとすると断固として拒否、未だに指一本触れさせてはくれない。
俺は知らないことになっている。こいつが独りで戦ってる相手であるところの腐れ外道が、本当は隣のアサギマダラよりも目の上の瘤である俺を狙ってること。俺の存在が一番邪魔で、俺の立場を何とか崩して最終的にはボロきれみたいに抹殺しようと暗躍してること。そうでもない不良や雑魚が汚い真似する時には全部そいつらが絡んでて、放っておいたら最後には俺に来るようになってること。こいつが蝶の身でありながら挑む蜘蛛の糸は、全部俺を潰すルートで、こいつが舎弟も連れずに飛び込んでくる時っていうのははそれを潰そうとしてる時なんだということも。
あちこち毛羽立った、こいつの二つ名の由来であるところの暗赤色の学ラン、その高校を選んだのも、そこに俺の色を見出したからなのだということも。
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唐突な学パロ。生きる唐突がわたし