無垢で無知な今が動く



午後を過ぎて夕方になろうという時間帯に、突然、遊馬から音声通信が入った。
「どうした」
『あっ、カイト!』
珍しいことだった。遊馬は余程のことがない限り、用があれば直接ここへ来る。通信を必要とした場合も、映像通話を使うことが多かった。
「何か分かったのか」
オレは先を促した。今はバリアン世界からの使者やナンバーズ96がいつ暴れてもおかしくない状況だ。そういう類の連絡ならいつあってもおかしくなかった。
『い、いや…そういうんじゃないんだけどよぉ、急ぎでもないし』
ところが、遊馬の答えはそれとも違った。その声も、歯切れが悪い、彼らしくない声の出し方だった。
「……」
だとすれば、何だというのだろう。個人的な話か。だが何故オレに?
『今日、そっち行っていいか?夜になっちまうんだけどさ』
沈黙はそう続かなかった。遊馬が続けて言ったのだった。今まで何度も遊馬はここに来たことがあるが、こんなことを言い出したのは初めてだ。そしてこの、彼らしくない――どこか思いつめたような雰囲気も。
「……分かった」
オレは短くそう答えた。今この場でそれを追及しても仕方がないのは自明だ。
『えっマジ?』
「いつも聞かずに来るだろうが、何を今更」
『…それもそうだな!じゃ今から行くぜ!』
何かあるのだろう。
そしてそれは直接顔を合わせた方が分かることに違いない。
「…オレの部屋じゃなくて、屋上に来い」
『えっなんで?』
「何でもだ」
ハートランドのシンボルの上であるそこは、屋上というより屋根の上だ。恐らくオレの部屋より他人に聞かれる可能性はずっと低いだろう。


その日は満月だった。夜も明るいハートランドシティの夜空でも、これだけ晴れていれば月は真珠色に輝いて見える。足を投げ出してぼんやりその月を眺めていると、WDCの最中、ハルトがVによってトロンのもとに連れ去られた日を思い起こさせる。月が水の中に映っていたあの日、遊馬とタッグデュエルをすることになった日を。あの時、彼はハルトのために身を投げ出してオレを救い、その純粋さはオレを困惑させた。その時はまさか彼とこんな関係になるとは思っていなかったものだが。

予告通り、遊馬が現れたのは、その月が地平線を離れて、空にはっきりと浮かぶような時刻になってからだった。
「よぉ、カイト」
「遅かったな」
夜風の中、あまり意味のない第一声を発し合う。さっきの通話の時から相変わらず、遊馬の様子は妙だった。散り散りになりそうな意識を無理矢理オレに集中させているようだ。元々真っ直ぐで裏表のない奴だが、これほどまでにはっきり悩み事を抱えていたことはないかもしれない。少なくともオレの前ではない。
「アストラルはいないのか」
「うん…最近なんかバリアンのこともあんのかしんねーけど、引きこもりがちでさ」
「そうか」
それはいいのか悪いのか。遊馬の個人的なことならアストラルが介在しない方が確かに話は聴きやすいが、彼らはついこの前ベクターによって不信感を植えつけられて関係が壊れかけたばかりのはずだ。
「……」
「……」
黙っていても、遊馬が何か言い出す気配はない。いつも放っておいても勝手に喋る彼と同一人物とは思えなかった。目をやれば、遊馬は立ったままだった。
「座ったらどうだ」
「お、おう」
オレが促して初めて、遊馬はオレの隣に胡坐を組んだ。ずいぶんと重症のようだ。それほどまでにこの男を緊張させる、それも緊急ではない案件というのは、一体どんなことだと言うのだろう。だがオレはそれを急かすことはしなかった。別に、黙ったまま頬杖でもついて月を見て待っていることはそう苦でもない。オレがペラペラ喋る性質でもないのは遊馬も知っているだろう。お前のタイミングで話せばいい。
それが伝わっているのかいないのか、遊馬は落ち着かなさそうに身動いだり首を振ったりしていた。視線がオレに刺さったり逸れたりする。何とも気の散った素振りだった。その様子に、覚えがあるようなないような、妙な感覚が忍び寄る。知っている気がする、これは、何だった?
だが、その答えはそう遠くもなく判明することになった。
「なぁカイト、」
意を決したような声が聞こえて、オレは横目をやって遊馬を見た。
「…恋愛って、何なんだ?」
遊馬は突然そんなことを言って、オレを今日初めて真っ直ぐ見上げてきた。

「……」
その目の揺れ方を見て、知る。
なるほど、そういうことだったか。
それを迷って、オレ自身に相談しようと思いつくところは実に彼らしい――愚直という言葉では足りないほど真っ直ぐだ。そしてこの場合、それは正解からそう遠くはない選択肢だった。もし先に他の者に相談されていたと分かったら、オレは気分が良くなかっただろう。

遊馬がオレに憧れていることは、散々言われてきたから知っていた。
デュエルの上のことだと思っていた。だが、いつの間にかそれだけではなくなっていたらしい。
それはオレ自身もよく知った感覚だった。確か今の遊馬と年の頃も近かった。そして、今の遊馬と同じ想いを抱いていた他人を見たこともあった。だからこいつの態度に見覚えがあるような気がしたのだ――オレと遊馬では、あるいはドロワでは、取っていた態度は厳密にはかなり違っていたが。

「……」
自ずと、笑みが零れた。
悪い気などするわけがない。遊馬はオレの恩人だ。


「隙あらば相手のことを想う。自らが相手のために何ができるか考える。そして願わくは振り向いて欲しいと思う」
オレは月に目を戻しながら、遊馬の問いに対するオレの知る答えを投げた。
「そして程度の差はあるが性的欲求を伴う。それが恋愛だ」
その単語を言った時、遊馬が息を呑む音がした。横目で一瞥すると、らしくもない渋い顔をしている。図星を指されたり、身に覚えがある時の表情だった。意外だ、幼いばかりだと思っていたがそうでもないようだ。
そして、そう近くに居なかったようで、オレも何だかんだと、こいつの色々な表情を見てきていたのだと知る。
「…カイトは、恋したことってあんのか?」
言うことに迷ったのか、遊馬はそんなことを聞いてどうするというような質問をしてきた。大体ドロワの件はこいつも知っているはずだが。
「…今までのオレにはそんな暇はなかった。だがどういうものか理解はしている」
「…そっか、そうだよな」
とは言え別に隠す必要もないので答えはくれてやる。遊馬はそのどの部分に納得したのか、細い声で呟いた。

オレは改めて遊馬の悩ましげな横顔を見た。
恋とは何か、と尋ねながら、自分でも半分以上その答えを分かっていたに違いない。ここには最後の確認に来たにすぎないのだ。
オレの視線に気づいて、遊馬が上げた目の奥、思った通りの混迷の色が踊っている。それがほぼ分かっていても、自分から全部の一歩を踏み出すのに躊躇っている。どんなことにも諦めずに向かっていけるこの遊馬でもそんなことがあるのかと思う一方、実に彼らしいと納得できる迷い方でもある。彼にとって、恋というのは全く未知の感覚だったのだろう。
「お前こそ、そんなことを聞いてくるとは、気になる奴でもいるのか」
若干やりすぎかと思いつつ、オレは最後の一歩を促した。どうせここまで来たなら、こいつだってこのまま引き下がるわけにもいかないだろう。

「かっとビングだ、オレ」
口の中で、遊馬がもごもごとそう呟いたのが聞こえた。
「なぁ、カイト」
そしてオレの促す通りに、遊馬はオレを正面から見つめて、
「オレ、カイトのこと、好きかもしれねえんだ」
呆れるほど直線的に、彼らしく、その想いを言葉にした。

「……そうか」
そしてその言葉は、分かっていたはずのオレにも真っ直ぐに、思った以上に深々と刺さった。

それなのに、今までの関係が崩壊するわけではないことが確かだという安心感もどこかにあった。
それはそうだろう、主に遊馬が決死で積み上げてくれた今までの道は、少しのことで揺らぐものではない。

「そうか、ってなんだよ」
遊馬が怪訝そうな声を出す。彼にとっては決死の告白だっただろうから、返事が短すぎることは不満だっただろうか。
「お前がそう言うことは分かっていた」
なのでオレも正直なところを告げてやった。遊馬は一転、目を極限まで丸くして間抜けな驚きの表情を作った。相変わらずころころとよく表情を変える。
「はぁあ!?なんで!?いつから!?」
「目を見れば分かる」
「えええええ」
まぁ、遊馬からしたら、その大げさなリアクションも無理もないかもしれない展開だ。大目に見てやろう。一通り変な声を出した後、遊馬は派手に嘆息した。
「オレ、そんなに分かりやすいのかよぉ」
「ふっ」
思わず笑い声を漏らせば、遊馬がオレに目を釘付けにしたのが分かった。分かりやすい、そのことはお前の長所なのだから、もっと胸を張っていればいい。

「それで…その……どうなの?」
遊馬は躊躇いをこれでもかというほど含んだ声色ではあったが、確かにそう聞いてきた。恋がどういうものかは知らなくても、告白には答えがあるものだということはちゃっかり知っているということか。
「……」
さて、面倒なことになった。
オレの中で、遊馬に対する想いにはまだ名前をつけることができずにいたのだ。
遊馬を大事にしてやりたい心は、オレなりに当然ある。だがそれは、さっき遊馬に答えてやった、今までオレが見知っている恋心とは別のものだった。
かつてクリスを想った時に感じたのは、猛々しいほどの狂おしさだった。
それにはあるまじき余裕が今のオレにはあるが、その時にはなかったものは他にもある。

遊馬のことを考える時、じわりと広がる温度だ。

「……」
思わず笑みが零れる。
確かに同じではないが、それが何だ。同じである必要があるだろうか。何せ対象は全くの別人だ。遊馬は5歳も年下で、これからより強く成長していく可能性に満ちている。その前途を想う時、奪ってきた魂に冷え切ったこの手がこれだけ温かくなるのなら、恋心かどうかなど瑣末な問題だ。


「今はお前がそれどころではないはずだ」
だがそれと、今手放しでそれを受け入れていいかどうかは別の問題だ。オレの答えは至極淡白なものとなった。
三つの世界がすべて舞台となり、バリアンの連中とアストラルが正面からぶつかろうという時に、その中心にいる遊馬がこんな下らない余所見をしている場合ではない。
「でっでもよぉ!オレこんなん初めてなんだぜ!?お前がどう思ってるかわかんねーのに他のことになんか集中できねえよぉ」
遊馬は弱音を吐いた。時々、彼にはこういうことがあった。普段デュエルで見せるしなやかな強さと、実に子供らしい甘えを併せ持つ、それが遊馬という男だった。
「ならお前はその程度ということだ。自分のコントロールさえできないというのなら、その時点でオレの隣に並ぼうなどおこがましい」
オレは声に力を込めて言い切った。その甘えを切り捨ててやるのは本来のオレの役目だ。
「ひっでぇ…」
遊馬は涙目になって、派手に肩を落とした。

それからしばらく遊馬は大人しくしていて、オレは再び夜空に目を戻した。しばらくまた無言の空間が続く。夜風は生暖かくて心地よいと言えばそうだが、同時に不穏な予感も抱かせる。今のところ大きな異変は起こっていないが、相手は父さんを5年もの間縛っていたベクター、そしてバリアン七皇だ。簡単に事が片付くはずがない。
「でもでもでも、言わせといてそれって、やっぱひどくね?」
そうしたら、隣から再び脳天気なことを言い出す声がして、オレは思わず鋭く振り返った。
「なんだと?生意気を言う口はこれか」
「いででででで」
そして油断でガードが緩んでいたのかもしれない、思わず手まで出た。遊馬は間抜けな声を上げる。つねり上げた頬の感触は見た目通りまだ子供だ。
だが、子供から大人への成長過程にあって、恐らく彼は見た目以上に複雑な心を抱えているのだ。そこに世界の命運まで背負い、幼い恋心をそのためにすべて押さえつけろというのは、やはり少し酷かもしれない。
遊馬はあの頃のオレとは違う。オレと同じものをすべて乗り越えさせる必要はない。
「…とは言え、一理ある」
「えっ」
オレが手を離してそう言うと、遊馬は一瞬思考が飛んだ顔をして、それから突然緊張したような面持ちになって、その場に正座した。その佇まいは、いつもカシコマリとか抜かしているオービタル7を思い出す。それが微笑ましく思えるのだから、恐らく答えは既に出ているのだ。

「悪いようにはしない、と答えておこう。すべてが解決したらな」

「えっ…マジ、で?」
遊馬は信じられないものを見る目でオレを見ていた。オレは横目でそれを見ていた。唇の端に笑みを浮かべてやったら、遊馬が震える息を一つ吸って、吐いたのが見えた。それから、じわりと、見たことのない顔で笑った。

遊馬が幸せを噛み締めている。

お前は、オレでそんな幸せを感じることができるのか。
ならばそれも悪くない。今度はオレがお前の心を支えよう。


***********

月が天頂近くに昇る。来たのが遅い時間だったから仕方がないが、遊馬には明日も学校がある。いつまでもここにいるわけにはいかないだろう。オレが立ち上がると、渋々といった体で遊馬も従った。
「今度はもっと時間ある時に来るぜ。そしたらまたデュエルしてくれよな!」
「いいだろう」
緊張の糸が切れたのか、遊馬はいつも通りの清々しさを取り戻していた。オレも落ち着いた心地だった。恋愛が云々という話をした後とは思えない穏やかさだ。
「遊馬」
屋根を歩いて屋内へ戻ろうとする彼の背中に、オレは声を掛けた。遊馬が、お、とか何とか言って振り返る。月に照らされた彼の顔は、いつもより少年と青年の間の陰影が濃いように思った。
オレは、唇の端を吊り上げるように笑った。遊馬にいつも向けている笑顔だった。
「早くオレを手に入れられるよう、せいぜい頑張るんだな」

「…カイト」
遊馬は呆然とオレの名を呟いて、それからくしゃりと音でもしそうな体で破顔した。
「ずりぃや、余裕でさ」

「……」
これまでのデュエル一辺倒の彼からしたら、意外な言葉が出てきたものだ。だが、彼らしさを失ったというわけではない。その移り変わりの瞬間を目の当たりにしていることは、奇妙な感覚だった。
だが、これからいくらでもそんな瞬間は訪れるに違いないだろう。今は動き続ける。

「でも、それでこそカイトなんだよな」
遊馬はそう言って、もう一度はっきりと笑った。

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